空海は、いまも高野山で修行を続けていると信じられている。
弘法大師は「亡くなった」のではなく、深い瞑想に入り、衆生を救う時を待っている――。奥之院では、千二百年を超えた今も、毎日欠かさず食事が供えられている。時間が止まっている場所が、ここにある。
その弘法大師・空海が、日本の仏の姿を大きく変えた。穏やかで静かな顔立ちが主流だった時代に、激しい怒りの表情を持つ仏を出現させたのである。
不動明王。
目を見開き、歯を食いしばり、炎を背負うその姿は、それまでの仏像とはまったく異なる世界を示していた。なぜ、仏は怒るのか? それは破壊のためではない。荒れた世を断ち切るための、激しい慈悲だった。
怒りは慈悲か? 空海が生み出した“仏像の革命”を通して、密教が描いた救いのかたちをたどっていく。
【放送日:2026年3月2日(月)9:30 -11:17・NHK-BSP4K】
【再放送:2026年3月2日(月)23:00 -0:47・NHK-BSP4K】
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入定とは何か?──いまも生きる空海
高野山の奥之院へ向かう参道は、杉木立に包まれている。足音さえ吸い込まれるような静けさの中、人々はある人物のもとへと歩いていく。
弘法大師・空海。
だが、ここでは「亡くなった人」として祀られているのではない。空海は入定した、と伝えられている。
入定(にゅうじょう)とは、深い禅定に入り、そのまま永遠の瞑想状態にあること。死ではない。活動をやめたわけでもない。いまも衆生を救うために、祈り続けていると信じられている。
奥之院では、千二百年以上にわたり、毎日二度、食事が供えられている。朝夕の御供。空海はいまも、そこにいるという前提で。時間の感覚が、少し揺らぐ。私たちにとって歴史上の人物である空海は、高野山では「現在進行形の存在」だ。この時間観こそ、密教の思想と深くつながっている。
真言密教は、「即身成仏」を説く。この身、このままで仏となる可能性があるという教えだ。遠い未来の救済ではなく、いま、この瞬間の覚醒。
空海自身が入定しているという信仰は、単なる伝説ではない。それは「救いは遠くにあるのではない」という思想の象徴でもある。千二百年前の僧が、いまも修行を続けていると信じられる場所。そこから、日本の仏の姿は変わっていく。
穏やかな顔立ちの仏の時代に、炎を背負い、怒りの表情を持つ存在が現れる。その革命は、この“時間を超える思想”から始まっていたのかもしれない。
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唐から持ち帰った密教という衝撃
奈良時代までの仏教は、経典の理解や戒律の実践を重んじる、いわば“言葉と理論”の宗教だった。だが密教は違う。言葉だけではない。身体を使う。
真言(マントラ)を唱え、印(ムドラー)を結び、曼荼羅という宇宙図を前に瞑想する。世界そのものが仏の身体であり、人もまたその一部である。救いは遠い彼岸ではない。いま、この身体のままで仏になれる――即身成仏。この思想は、日本にとって衝撃だった。
抽象的な教えが、具体的な形を持つ。宇宙は曼荼羅として視覚化され、仏は象徴的な姿を与えられる。怒りもまた、象徴になる。
空海は単に経典を持ち帰ったのではない。「世界の見え方」を持ち帰った。それは思想の輸入であり、芸術の革命でもあった。穏やかな如来像の時代に、炎を背負う明王が現れる。密教は、見えない宇宙を“見える形”にする宗教だった。その具現化こそが、仏像革命へとつながっていく。
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怒りの仏、不動明王の意味とは?
穏やかな如来像に慣れた目で見ると、不動明王は衝撃だ。目を見開き、牙をむき、背後には燃え上がる炎。そして――何かを踏んでいる!なぜ、仏が怒るのか? まず整理しておきたいのは、不動明王は「如来」ではないということ。
密教では、仏の世界は階層構造になっている。頂点に大日如来。その智慧を具体的に働かせる存在が「明王」。明王は、慈悲を“激しい形”で表現する役割を担う。優しく説いても届かない心がある。迷いが強く、執着が深いとき、必要なのは穏やかな微笑みではない。断ち切る力だ。
不動明王が右手に持つのは剣。それは人を傷つけるためではない。煩悩を断ち切る象徴。左手の羂索(けんさく)は縄。迷いの中にいる者を引き寄せるための道具。そして足元に踏まれている存在。あれは“悪”そのものというより、無明――真理を知らない状態の象徴だ。
踏みつけるのは支配のためではない。迷いを動けなくするため。怒りの表情も、憎しみではない。激しい慈悲。密教において、怒りは破壊ではなく、救済のための強い意志だ。炎は怒りの熱であると同時に、煩悩を焼き尽くす浄化の火でもある。
国立博物館の展示室で明王を見たときの違和感。「仏が何かを踏んでいる!」その感情こそ、空海が意図した衝撃かもしれない。
優しいだけでは救えない世界がある。荒れた時代に、穏やかな微笑みだけで人は救われるのか? 空海は、仏の姿を通して問いを投げた。怒りは慈悲か? 不動明王は、その問いに炎の中で立ち続けている。
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空海が残した思想の現在地とは?
不動明王の怒りは、やがて静けさへと収まっていく。怒りは目的ではない。救いへ至るための手段だ。空海が説いた密教の核心は、「即身成仏」にある。この身、このままで仏となる。遠い来世ではなく、いま、この瞬間に。
怒りもまた、その過程のひとつにすぎない。煩悩を断ち切る力としての怒り。迷いを焼き尽くす炎。だが最終的に目指すのは、大日如来の静かな光だ。
高野山では、いまも空海が修行を続けていると信じられている。それは単なる伝承ではない。救いは過去の出来事ではなく、現在進行形だという思想。怒りの仏像革命も、歴史の中に閉じた出来事ではない。
現代に生きる私たちもまた、迷い、怒り、葛藤を抱えている。そのとき、怒りを否定するのではなく、どう使うかを問う。
破壊ではなく、迷いを断ち切るために。傷つけるためではなく、目を覚ますために。空海が残したのは、仏像の新しい姿だけではない。感情をどう扱うかという、ひとつの思想だったのかもしれない。
炎の奥には、静かな光がある。怒りは慈悲か? その問いは、千二百年を経ても、まだ燃え続けている。
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まとめ|空海が現代に残した宿題とは?
穏やかな仏を思い浮かべていた私たちにとって、炎を背負い、何かを踏みしめる不動明王の姿は、たしかに“事件”だ。仏さまが怒っている。その違和感は、驚きであり、戸惑いであり、どこか少し怖さもある。
けれど、立ち止まって見つめていると、その怒りは誰かを傷つけるためのものではないと気づく。迷いを断ち切るための剣。引き寄せるための縄。踏みつけられているのは、人そのものではなく、私たちの中にある無明や執着だ。
怒りは、ただ荒ぶる感情ではない。向きを変えれば、守る力にもなる。空海がもたらした「仏像革命」は、仏の顔を変えただけではなかった。私たちの感情の見方をも揺さぶった。怒りを否定するのではなく、どう使うかを問う。強さを持ちながら、その奥に慈悲を宿すことはできるのか?
高野山でいまも修行を続けていると信じられる空海は、遠い過去の人物でありながら、どこか現在の私たちにも問いかけているようだ。怒りを見て、何を感じたか? それは信仰の問題ではない。自分自身の心の問題かもしれない。
炎の向こうに、どんな光を見るのか? その問いは、きっと千二百年前よりも、いまの時代のほうが切実なのだろう。