皇居という場所が守ってきた、美のかたち|馬車・織物・椅子に宿る思想【美の壺】

皇居の二重橋 BLOG
成功したときには誰にも気づかれない。むしろ、気づかれた時点で失敗なのかもしれない。皇居の美に違いない。
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皇居は、とても近くにあるのに、その中で何が大切にされてきたのかは、案外知られていない。豪華さや威厳が語られることは多いけれど、皇居の美は、目立つところよりも、見えにくい場所に息づいている。

馬車の動き、椅子のかたち、織物の文様、足跡を残さない日々の手入れ。それらは「見せるため」に選ばれたのではなく、続けるために選ばれてきた美だ。

美の壺・年末スペシャル「皇居」は、この場所が長い時間をかけて守ってきた“美のかたち”を、声を張らずに映し出す。それは完成された美ではなく、手を入れ、選び直し、今日も明日も保たれていく美。皇居という場所が、何を美しいと考えてきたのかを、静かに教えてくれる。

(放送日:2025年12月30日(火) 10:30 -12:00・NHK BS)

動きの中に宿る美(馬車列・儀仗隊)

皇居でまず目を引くのは、ゆっくりと進む馬車列や、寸分の乱れもなく整えられた儀仗隊の動きだ。華やかではある。けれど、その美しさは目立つために誇張されたものではない。むしろ、余計な動きを削ぎ落とした結果としての美に近い。

大正時代に製造された馬車は、今も手を入れられながら使われ続けている。修復にあたるのは、特別な舞台に立つ職人ではなく、長い時間、黙々と技を重ねてきた人たちだ。新しく見せることより、変わらず動かし続けることが選ばれてきた。

儀仗隊の所作も同じだ。一糸乱れぬ動きは、見せ場をつくるためではない。動きが揃うことで、個々の存在が前に出すぎず、場全体の緊張感が保たれる。そこにあるのは、「上手に見せたい」という意識ではなく、乱れないことへの美意識だ。

誰か一人が目立つより、全体が静かに整っていることが尊ばれる。皇居が大切にしてきたのは、止まった美ではなく、繰り返される動きの中で少しも崩れない美しさだったのだろう。それは、一瞬のために磨かれたものではない。今日も、明日も、同じ動きが続いていくことを前提に選ばれた、時間に耐える美のかたちだ。

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誰もが知る空間にある、控えめな設え(宮殿・椅子)

皇居の宮殿は、多くの人が映像や写真で一度は目にしたことのある空間だ。天井の高さ、広がりのある間取り、整えられた調度品。どれも「立派」ではあるが、そこに過剰な主張はない。

とくに印象に残るのが、宮殿に置かれた椅子の存在だ。豪奢さを誇るための椅子ではなく、座る人を引き立てるためでもない。その場の空気を乱さず、役目を果たすための椅子が、静かに並んでいる。

番組では、外国からの賓客と同じ目線で宮殿を巡る視点が紹介される。そのとき初めて気づくのは、この空間が「見せるため」に作られていないということだ。椅子の高さ、座面の硬さ、配置の間隔。どれも、使われる瞬間の緊張感や、その場に集う人同士の距離感を慎重に考え抜いた結果だろう。

快適すぎず、威圧的でもない。場を整えるための設えが、そこにはある。皇居の宮殿が美しいのは、完成された造形だからではない。使われる一瞬のために、余計なものを足さず、足りないものも作らない。その選び方が、長い時間を経ても古びない理由なのだろう。

ここで大切にされてきたのは、目を引く美ではなく、人と人、国と国のあいだに静かな秩序を生む美しさだった。

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入れ替えられ続ける“完成品”(絵画・美術品)

美術品は、完成した瞬間に役目を終えるものだと思われがちだ。額に収められ、決められた場所に掛けられたら、あとは変わらずそこにあり続ける――そんなイメージがある。けれど皇居では、絵画や美術品もまた、動き続ける存在として扱われている。

番組で紹介されるのは、展示作品の入れ替えの現場。完成度の高い作品であっても、光や湿度、時間の経過によって、状態は少しずつ変化していく。だからこそ、そのまま置き続けることはしない。

入れ替えるという行為は、作品を入れ替える以上に、環境を整え直す仕事だ。作品が最もよい状態で在り続けるために、空間や配置が、静かに選び直されていく。そこには、「完成したからもう大丈夫」という考え方はない。完成とは終点ではなく、守り続けるための始まりなのだ。

皇居の美術品は、鑑賞のためだけに存在しているわけではない。空間の一部として、場の緊張感や調和を支える役割を担っている。だからこそ、その役割が果たせなくなれば、場所を変え、休ませ、また戻ってくる。

完成品を、完成のままにしない。それが、皇居が選び続けてきた美との向き合い方なのだろう。目立たないけれど、確かに続いている。そんな仕事の積み重ねが、この場所の静かな品格を支えている。

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社運をかけて織られた壁(豊明殿と綴織)

宴が開かれる場所で、人はつい料理や人の顔に目を向ける。けれど皇居・豊明殿の壁は、誰にも主張せず、しかし確実に場の格を決めている。その壁面を彩るのが、綴織(つづれおり)による巨大な織物「豊幡雲(とよはたぐも)」だ。

原画は日本画家・中村岳陵。夕景にたなびく茜雲という、きわめて静かなモチーフ。だが、それを“織物”として約270㎡という規模で再現するために、川島織物は新たな織機を新設し、文字どおり社運をかけた挑戦に踏み切った。

完成は1967年。高度経済成長のただ中で、効率や量産が価値とされていた時代に、気の遠くなるような手間と時間をかけて「目立たない壁」を織るという選択。この織物は、近づいても細部が誇張されない。遠目でも、絵として主張しすぎない。けれどその場に立つと、不思議なほど空気が落ち着く。

それは、この壁が「鑑賞されるため」ではなく、宴という一瞬の緊張と祝意を包み込むために作られているからだろう。ホテルの宴会場で使われる絨毯や壁布も、決して主役にはならない。だが、そこにあるかないかで空間の質は決定的に変わる。

皇居の綴織は、その思想を国家のもてなしの場まで突き詰めた存在だ。誰も「すごいですね」とは言わない。誰も写真に残そうとはしない。それでも、その場が「ちゃんとしている」と感じられるのは、こうした見えない覚悟が壁一面に織り込まれているからなのだ。

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痕跡を残さないという美(清掃・盆栽)

皇居の美は、「残すこと」だけでできているわけじゃない。むしろ、何も残さないことに、最も神経が使われている。

番組で描かれるのは、日々の清掃の現場。指紋も、靴跡も、人が通った気配さえも翌朝には消えている。ここで求められているのは、“きれいにした”という結果ではない。最初から何もなかったかのように整えること

そのために、動線を読み、素材を知り、触れ方を変える。清掃とは、汚れを取る仕事ではなく、時間を巻き戻す仕事なのだ。

そして、もうひとつの裏方が、盆栽。多くの人が「完成された姿」だけを見るが、その裏には、伸ばさない枝、咲かせない芽、あえて見せない季節がある。

盆栽は、美しさを足していくものではない。余計な未来を削ぎ落とすことで、今を保つ。その考え方は、清掃の美意識と驚くほど近い。

どちらも、成功したときには誰にも気づかれない。むしろ、気づかれた時点で失敗なのかもしれない。皇居の美は、こうした「名もなき仕事」の上に静かに立っている。声を上げず、記録にも残らず、ただ“整っている”という状態だけが残る。

それは、華やかさとは正反対の場所にある美。けれど、国の中心にふさわしい美とは、こういうものなのだろう。

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まとめ:美は、声を上げずに続いていく

皇居の美は、誰かに見せるために磨かれてきたものではなかった。動きの中に宿る緊張、控えめな設え、完成しても入れ替えられ続ける作品、社運をかけて織られた壁、そして、痕跡を残さない日々の手入れ。

そこに共通していたのは、「目立たないことを選び続ける意志」だった。派手さよりも秩序を。効率よりも持続を。完成よりも、整え続けることを。

皇居が示している美のかたちは、特別な場所だけのものではない。私たちの暮らしの中にも、同じ選択は静かに息づいている。声高に語られなくても、写真に残らなくても、「ちゃんとしている」と感じられる空気。それこそが、長い時間をかけて受け継がれてきた日本の美なのだろう。

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