暗がりの中に、ぽつりと灯る火。
和ろうそくの炎、神社のちょうちん、祭りのたいまつ――日本の「和の明かり」には、ただ周囲を照らすだけではない、不思議な力があります。それは、ものをはっきり見せるための光というよりも、人の気配や祈り、記憶までもそっと浮かび上がらせる光です。
今回の『美の壺』「光の記憶 和の明かり」では、歌舞伎俳優・尾上松也さんが語る、和ろうそくの奥深い魅力をはじめ、雪深い会津で受け継がれてきた絵ろうそく、神社を彩るちょうちん、そして夜空を焦がす巨大たいまつまで、日本人が長く守り伝えてきた“火と灯りの美”が描かれます。
明かりは、暗さを消すためだけのものではない。むしろ日本では、ほのかな灯りのなかにこそ、人の願いや物語が宿ってきたのかもしれません。
この記事では、『美の壺』の内容をもとに、人はなぜ火を絶やさずにきたのかという視点から、“和の明かり”に込められた祈りと記憶を、やさしくたどっていきます。
【放送日:2026年4月6日(月)13:00 -13:30・NHK-BSP4K】
【放送日:2026年4月7日(火)19:30 -20:00・NHK-BS】
【放送日:2026年4月8日(水)8:00 -8:30・NHK-BSP4K】
【放送日:2026年4月11日(土)6:45 -7:14・NHK-BSP4K】
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和の明かりは、なぜ“明るすぎない”のに美しいのか?
和の明かりの魅力は、空間をすみずみまで明るくすることではなく、あえて影や余白を残しながら、そこにある気配をそっと浮かび上がらせるところにあります。
現代の照明は、部屋全体を均一に照らし、ものを「はっきり見せる」ことに優れています。けれど、和ろうそくやちょうちんのような昔ながらの明かりは、どこか一部だけを照らし、そのまわりには静かな暗がりを残します。
その“見えすぎなさ”こそが、和の明かりを美しく感じさせる理由なのかもしれません。たとえば、和ろうそくの炎は、電球のように一定ではなく、ゆらゆらと揺れながら、壁や天井、そして人の表情にやわらかな陰影をつくります。その揺らぎによって、空間そのものがじっと静止しているのではなく、呼吸しているように感じられるのです。
きっと和の明かりが美しいのは、“光”だけが主役ではないからでしょう。炎の上にすっと立ちのぼる煙、火が消えたあとに残る匂い、灯りの届かない場所にひそむ影――そうしたものすべてが一緒になって、ひとつの空気をつくっています。
書道で使う墨が、もともとは灯火の煤から生まれてきたことを思えば、和の明かりはただその場を照らして終わるものではなく、光の痕跡までも、文化として残してきたとも言えそうです。
明るさを増やせば、見えるものはたしかに増えます。でも、そのぶん失われるものもあります。ほんのりとした明かりのなかでしか見えてこない輪郭、はっきりしないからこそ想像がふくらむ余白、そして、静かな時間の流れ。明るすぎないからこそ、人はそこに自分の記憶や感情を重ねられるのかもしれません。
和の明かりは、暗さを消し去るためのものではなく、暗がりの中にある美しさを見つけるための光なのかもしれません。
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壺-1 和ろうそく|炎はなぜ、こんなにも“生きている”ように見えるのか?
和の明かりを語るうえで、まず思い浮かぶのが、やはり和ろうそくではないでしょうか。
和ろうそくの火は、洋ろうそくのように静かに燃えるというより、どこか呼吸をしているように、大きく、やわらかく揺れます。そのため、炎そのものを見ているだけでも、不思議と目が離せなくなることがあります。ただ“明るい”のではなく、そこに生きた気配があるように感じられるのです。
その秘密のひとつが、和ろうそくならではの太い灯芯にあります。和紙や灯芯草、真綿などを使って作られる芯は、洋ろうそくよりも空気をよく含み、炎をふっくらと大きく育てます。さらに、原料に木蝋(もくろう)などの植物性の蝋が使われることも、あの独特の燃え方につながっているそうです。
炎は一定ではなく、わずかな空気の流れにも応えるように揺れながら、光と影をやわらかく動かしていきます。だから和ろうそくの火は、ただ物を照らすだけではなく、その場の空気や人の表情まで“映し出してしまう” のかもしれません。
歌舞伎の舞台で和ろうそくが使われてきたのも、そうした炎の性質と無関係ではないのでしょう。揺らぐ火は、役者の顔に微妙な陰影を生み、場面に張りつめた緊張や、言葉にならない感情までもにじませていきます。
たとえば、怪談や密やかな語りの場面で、和ろうそくが一本だけ灯されるとき。その火は、ただ周囲を照らしているのではなく、“これから語られるもの”の気配まで照らしているように見えます。
朝ドラ『ばけばけ』で、おトキちゃんが怪談を語る場面に和ろうそくが添えられていたのも、まさにそんな演出だったのかもしれません。一本の火があるだけで、その場の空気は現実から少し離れ、人の記憶や想像のほうへと、静かに傾いていくのです。
そして、和ろうそくの魅力は、炎だけにとどまりません。火の上にすっと立ちのぼる煙、燃えたあとに残る匂い、そして、その煤が墨へとつながっていくことまで思えば、和ろうそくは単なる灯りというより、火の痕跡そのものを文化に変えてきた存在とも言えそうです。
会津の絵ろうそくのように、花の絵をまとったろうそくが雪深い土地で受け継がれてきたことも、どこか象徴的です。長い冬のあいだ、生花のかわりに花を灯すように、そこには明かりを“見る”だけではなく、願いを託すものとして扱ってきた感覚が息づいています。
和ろうそくの炎が、こんなにも“生きている”ように見えるのは、それがただ燃えているからではなく、人の祈りや物語を、ずっとそばで受け止めてきた火だからなのかもしれません。
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壺-2 ちょうちん|光を“持ち歩く”文化が生んだ美しさ
和ろうそくが“火そのものの美しさ”を伝える存在だとすれば、ちょうちんはその火をやさしく包み込み、人とともに歩く明かりだと言えるかもしれません。
ちょうちんの灯りは、どこかに据えられた光ではなく、人の動きに寄り添いながら、夜の中をゆらゆらと移動していきます。そのため、照らされる景色もまた、固定されたものではなく、歩くたびに少しずつ姿を変えていきます。この“動く光”という性質こそが、ちょうちんならではの美しさを生み出しているのでしょう。
たとえば、神社の参道に並ぶちょうちんの灯り。ひとつひとつは決して強い光ではないのに、連なっていくことで、夜の道にやわらかな奥行きをつくります。明るさというよりも、「ここを進んでいく」という気配そのものが灯っているような感覚です。
また、ちょうちんはもともと、旅や日常の中で使われてきた“携帯する明かり”でもありました。なかでも、江戸時代に東海道を行き来する人々に重宝されたのが、小田原提灯です。

折りたたんで持ち運びができるこの提灯は、箱根越えの険しい夜道を照らすための実用的な道具でありながら、どこか軽やかで、愛らしいかたちをしています。童謡『おサルのかごや』に登場することでも知られ、その存在は、単なる旅道具を超えて、日本の風景や記憶の中にやさしく溶け込んできました。
ちょうちんの光は、遠くまで強く照らすことはできません。けれどそのぶん、足元や手元といった、“いまここにあるもの”を丁寧に照らす光でもあります。だからこそ、その灯りの中では、人は自然と歩く速度を落とし、まわりの気配に耳を澄ませるようになるのかもしれません。
また、和紙と竹でつくられたちょうちんは、火を覆い隠すのではなく、そのやわらかな光を透かして外へと広げます。光はぼんやりとにじみ、輪郭を少しだけ曖昧にしながら、夜の空気とゆるやかに混ざり合っていきます。
それはまるで、光そのものがどこかへ向かうというより、人のそばにとどまり続けるための灯りのようにも見えます。ちょうちんは、ただ明かりを“持ち運ぶ”ための道具ではなく、人の移動や時間に寄り添いながら、その瞬間の風景を静かに照らし続けてきた存在なのでしょう。
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壺-3 たいまつ|火はなぜ、共同体の“記憶”になるのか?
和ろうそくやちょうちんが、人のそばに寄り添う小さな明かりだとすれば、たいまつは、もっと大きな単位で人々を結びつける火なのかもしれません。
たいまつの火には、ただその場を照らす以上の力があります。夜の闇の中で高く燃え上がる火は、そこに集まる人々の視線や気持ちをひとつに集め、“いま、この場をともにしている”という感覚を生み出します。だからこそ、たいまつは古くから、祭りや儀礼の中心に置かれてきたのでしょう。
今回の『美の壺』で紹介されそうな、福岡・久留米の大善寺玉垂宮に伝わる「鬼夜」のような火祭りでは、巨大なたいまつが夜空を焦がし、見る者を圧倒するほどの迫力を放ちます。

けれど、その火の価値は、単に「大きい」「すごい」ということだけではありません。大切なのは、そうした火が何百年、何千年という時間の中で、地域の人たちによって受け継がれてきたということです。
火は、放っておけば消えてしまうものです。だからこそ、絶やさずに守るには、誰かが手をかけ、準備し、受け渡していかなければなりません。その意味で、たいまつの火は、単なる炎ではなく、人から人へと受け継がれてきた記憶そのものとも言えそうです。
奈良・東大寺二月堂の修二会で、大きな松明が夜の回廊を駆け抜ける光景もまた、そうした“受け継がれる火”の象徴でしょう。あの火には、厄除けや無病息災への願いが込められていると同時に、長い年月をかけて積み重ねられてきた祈りの時間が宿っています。
だから私たちは、ただ「きれいだ」と眺めるだけではなく、どこか畏れに近い気持ちで、その火を見つめてしまうのかもしれません。
考えてみれば、火はいつの時代も、人を集める力を持っていました。焚き火を囲めば自然と会話が生まれ、祭りで火が上がれば、人々の心は高鳴る。
かつてはスキー場で、夜の斜面を松明の列が滑り降りていく「松明滑降」が各地で行われていたこともありましたが、そうした風景が少しずつ姿を消しているのを見ると、火を囲み、火をともに眺める時間そのものが、いまでは少し貴重なものになってきたようにも感じます。
それでも、たいまつの火が今も人の心を打つのは、その炎の中に、「ひとりでは守れないものを、みんなで守ってきた時間」が見えるからではないでしょうか。たいまつは、暗闇を照らすための明かりであると同時に、共同体の記憶を、いまこの瞬間に燃え上がらせる火でもあるのです。
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“不断の灯”に見る、日本人の火へのまなざし
日本には、火をただ使うのではなく、絶やさずに守り続けるという文化があります。その象徴ともいえるのが、延暦寺に灯る「不滅の法灯」です。
1200年以上、一度も消えることなく守り継がれてきたこの火は、単なる灯りではなく、人の祈りと時間が重なり続けてきた存在だと言えるでしょう。
火は、本来とても不安定なものです。少し油断すれば消えてしまうし、逆に扱いを誤れば、すべてを焼き尽くしてしまうこともある。だからこそ、火と向き合うということは、ただ便利に使うことではなく、気を配り、手をかけ、見守り続けることでもありました。
「油断すると消えてしまう」――そんな当たり前の性質を持つ火を、あえて絶やさずに守り続けるという行為には、どこか象徴的な意味が宿ります。それは、単に火そのものを守っているのではなく、その火に託された祈りや願い、そして、そこに連なってきた時間を途切れさせないための営みなのかもしれません。
考えてみれば、スイッチひとつで光を得られる現代において、火を守り続けるという行為は、効率だけを見れば決して合理的とは言えません。それでもなお、火を絶やさずに受け継いできたのは、そこに「失ってはいけないもの」があると、人々が感じ続けてきたからなのでしょう。
和ろうそくの炎、ちょうちんの灯り、たいまつの火――それぞれ形は違っても、どれも人の手によって支えられ、守られてきた光でした。そして、その根底にあるのは、“火は自然にそこにあるものではなく、人が守ってはじめて存在し続けるもの”という感覚です。
だから日本の明かりは、どこかやさしく、そして少しだけ儚い。いつでも消えてしまうかもしれない。でも、誰かがそっと手を添えている限り、また静かに灯り続ける。そんな火を見つめていると、私たちは無意識のうちに、自分たちもまた、何かを受け取り、誰かへ渡していく存在なのだと感じているのかもしれません。
和の明かりに宿る“祈り”とは、もしかすると、火そのものではなく、その火を絶やさないように見守り続けてきた人の心なのではないでしょうか。
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和の明かりが、今も世界で惹かれる理由とは?
いま「和の明かり」が国内外で注目されているのは、単に日本らしい意匠が美しいから、というだけではないのかもしれません。むしろその魅力は、現代の暮らしがあまりにも“明るくなりすぎた”ことと、どこか深く関係しているようにも思えます。
現代の光は、とても便利です。スイッチひとつで空間全体を均一に照らし、昼も夜もほとんど変わらない明るさをつくることができます。けれどその一方で、私たちはいつのまにか、暗がりの中でしか感じられない落ち着きや、光の濃淡がつくる奥行きを、少しずつ失ってきたのかもしれません。和の明かりは、そうした現代の光とは、少し違う方向を向いています。
行灯や提灯、和ろうそくの火は、空間のすべてを照らそうとはしません。むしろ、あえて影を残し、見えない部分をそのままにしながら、必要なところだけをやさしく浮かび上がらせます。そのため、そこにいる人は、
“情報”として空間を把握するのではなく、空気や気配として、その場を感じることになります。
この感覚は、西洋の明かりの歴史と比べると、より印象的に見えてきます。ヨーロッパでは、長く洋ロウソクの燭台や油ランプ、シャンデリアといった明かりが発達し、室内をしっかり照らしながら、社交や読書、祈りの場を支えてきました。
もちろんそこにも美しさはありますが、光を“広げる”ことや、“見えるようにする”ことが、より重視されてきた面もあります。それに対して、日本の明かりは、紙や木でつくられた建築空間の中で、光を広げるというより、にじませるように使われてきました。
障子越しのやわらかな明るさ、行灯のぼんやりとした灯り、ろうそくの揺れる炎。そうした光は、ものをくっきり見せるというよりも、その場に“余白”を残す光だったのでしょう。
だからこそ今、スマートフォンやLEDの白い光に囲まれた時代に、和の明かりは新鮮に感じられるのかもしれません。明るすぎないこと。全部を見せすぎないこと。少し影があること。その不完全さが、かえって人の心を休ませ、想像する余地を与えてくれる。
和の明かりが今も世界で惹かれるのは、それが古いからではなく、“これからの時代に、むしろ必要とされる光”だからなのではないでしょうか。
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まとめ|『美の壺』が映す“光の記憶”とは?
『美の壺』「光の記憶 和の明かり」が映し出しているのは、単なる昔ながらの照明器具の美しさではありません。和ろうそく、ちょうちん、たいまつ――そこに共通しているのは、人が火をただ“使う”のではなく、祈りや記憶とともに守り、受け継いできたということでした。
和の明かりは、現代の照明のように、空間をすみずみまで明るく照らすものではありません。けれどそのぶん、人の気配や時間の流れ、言葉にならない感情のようなものまで、そっと浮かび上がらせてくれます。それは、「よく見えること」よりも、「何を感じるか」を大切にしてきた光なのかもしれません。
火は、放っておけば消えてしまいます。だからこそ、その灯りを絶やさないように守ることには、ただ便利さを超えた意味が生まれます。人はなぜ、火を絶やさずにきたのか。それはきっと、火の向こうにあるもの――祈り、記憶、願い、そして誰かと分け合った時間までを、一緒に守りたかったからなのでしょう。
明るさを追い求めれば、見えるものはたしかに増えていきます。でもその一方で、ほのかな灯りの中でしか感じられない美しさもあります。暗がりの中に、ぽつりと灯る火。その小さな明かりが、今もなお私たちの心を静かに揺らすのは、そこに“光”だけではなく、人が生きてきた時間のぬくもりまで宿っているからなのかもしれません。