ほうとうと聞くと、かぼちゃが入った平たい麺を、味噌仕立てでぐつぐつ煮込んだ料理を思い浮かべる人が多いだろう。山梨の名物として知られているけれど、実はこの平たい麺の文化、山梨だけのものではない。
群馬には「おっきりこみ」があり、同じように幅広の麺を、野菜と一緒に煮込んで食べてきた。山を挟んだ隣同士ともいえそうな県。似たような粉食文化が育っていても、不思議ではない。
それでも、ほうとうとおっきりこみは、どこか決定的に違う。ほうとうは、うどんというより、鍋に近い。出汁よりも野菜と味噌が前に出て、かぼちゃは具ではなく、一杯全体をまとめる役割を担っている。
この料理は、「おいしい名物」を作るために生まれたものではない。富士山の麓で、寒さと向き合いながら日々を生きるために育まれてきた粉食の知恵だ。
あさイチ中継が映し出すのは、どこかの有名店の一杯ではなく、そんな“ほうとうの本当の姿”なのかもしれない。
【放送日:2026年1月29日(木)8:15 -9:55・NHK総合】
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ほうとうは「かぼちゃうどん」だと思っていた
正直に言うと、ほうとうに対する最初の印象は、だいたいみんな同じだ。平たい麺に、かぼちゃが入って、味噌味で煮込まれている。いわば「かぼちゃうどん」。観光地のメニュー写真を見ても、テレビで紹介される映像を見ても、そのイメージはほとんど変わらない。
実際、間違ってはいない。ほうとうには、かぼちゃが入る。幅広の麺も使われる。味噌で煮込まれることが多い。だからこそ、多くの人がそこで思考を止めてしまう。「ああ、あれね」と。「山梨の、かぼちゃうどんでしょ」と。
でも、実際にほうとうの中身をよく見てみると、その理解では、どうも足りない。かぼちゃは、ただの具材として後から入れられているわけじゃない。煮崩れて、汁に溶け込み、全体のとろみと甘みを作っている。麺も、出汁を吸って完成するというより、野菜や味噌と一緒に「煮込まれて一体になる」存在だ。
つまり、ほうとうはうどんに具を足した料理ではない。最初から、鍋として設計された粉食。それが、ほうとうの正体に近い。
「かぼちゃうどん」という言葉は、わかりやすいけれど、同時に大事な部分を少しだけ隠してしまう。ここから先は、その隠れていた輪郭をひとつずつ、確かめていく話になる。
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平たい麺は、全国にある
幅のある麺そのものは、実は全国各地に存在している。群馬の「おっきりこみ」。名古屋の「きしめん」。秋田の「稲庭うどん」や長崎の「五島うどん」。形だけを見れば、ほうとうとよく似ている。
だから一見すると、ほうとうもその仲間のひとつのように思える。けれど、食べ比べてみると、決定的に違うところがある。それが、汁のあり方だ。
きしめんは、澄んだ出汁が主役になる。麺は、出汁の中でほどける存在だ。おっきりこみは、野菜と一緒に煮込まれるけれど、汁はさらりとしていて、最後は「うどん」として収まる。
一方、ほうとうは違う。かぼちゃが煮崩れ、味噌と混ざり合い、汁そのものがとろみを帯びていく。麺は、その中に沈み込み、ほどけるというより、鍋の一部になる。このとろみがあるから、体が芯から温まる。冷めにくく、最後まで同じ温度で食べられる。
つまり、平たい麺という共通点はあっても、目指している場所が違う。ほうとうは、麺料理として完成するのではなく、一鍋の食事として完結する。だから、似ているようで、どこか別の料理に感じられるのだ。
この違いは、味の好みの問題ではない。その土地で、どう生きてきたかの違いが、そのまま器の中に表れている。
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ほうとうは、麺料理ではなく“鍋”だった
ほうとうを前にすると、「うどんか、鍋か」とつい分類したくなる。でも、その問い自体が、ほうとうにはあまり意味を持たない。ほうとうは、最初から“鍋”として作られている。出汁を取って、そこに麺を泳がせる料理ではない。
野菜を入れ、味噌を溶き、具材と一緒に麺を煮込む。火にかける時間の中で、かぼちゃは崩れ、汁に溶け込み、鍋全体の味と質感を作っていく。
このとろみは、偶然できたものではない。寒さの厳しい富士山の麓で、少ない材料でも体を温め、腹持ちのする食事を作るための知恵だ。麺は主役ではない。野菜も、脇役ではない。味噌も、調味料以上の存在になる。すべてが同じ鍋の中で、役割を分け合いながらひとつの料理になる。それが、ほうとう。
だから、ほうとうには「一杯で完結する感じ」がある。おかずを足さなくても、十分に食事になる。これは、ごちそうとして洗練された結果ではなく、暮らしの中で磨かれてきた形だ。
甲斐の人たちは、ほうとうを「うどん」として語らなかった。ただ、日々を支える鍋として、当たり前に食べてきただけだ。ほうとうの魅力は、特別感ではない。生きるための実感が、そのまま残っているところにある。
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米がとれない土地で、生きるための粉食
ほうとうの背景にあるのは、料理の工夫というより、土地そのものだ。山梨、とくに富士山の麓は、平野が少なく、水田を広く作るのが難しい。寒暖差も大きく、稲作には向かない環境だった。米がとれにくい。それは、食べられるものを自分たちで考えなければならないということでもある。そこで頼られたのが、小麦だった。
畑で育てやすく、保存もしやすい。粉にしておけば、麺にも、団子にもなる。ほうとうは、その小麦を無駄なく、効率よく、体を支える形にした料理だ。
野菜をたっぷり入れ、味噌で煮込み、かぼちゃでとろみと甘みを足す。油も、出汁も、贅沢には使わない。それでも、鍋ひとつでしっかり腹にたまる。これは、工夫の結果というより、生き延びるための選択だった。
米が当たり前にある土地では、生まれなかった料理。でも、米がなくても生きていく必要があった土地だからこそ、ほうとうは育った。
粉をこね、鍋で煮る。その単純な行為の中に、甲斐の人たちの暮らしの知恵が、そのまま残っている。ほうとうは、過去の貧しさを語る料理ではない。土地に合わせて生きてきた証として、今も食卓に置かれている。
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店の料理になる前に、家の料理だった
ほうとうは、最初から「外で食べる料理」ではなかった。観光地の看板に並ぶ前に、メニュー名になる前に、家の台所にあった料理だ。特別な日だけに食べるものでもない。客人をもてなすための一品でもない。寒い日に、畑から戻ってきたあとに、鍋に火をかけて、そのまま食べる。
作り方も、きっちり決まっていたわけじゃない。その日にある野菜を入れて、味噌を溶いて、小麦粉をこねて麺を打つ。かぼちゃがなければ、里芋でもいい。白菜でも、大根でもいい。ほうとうは、「これでなければならない」という料理じゃない。こうすれば生きていける、という料理だ。
だから、富士吉田のうどんが普通の民家で出されてきたように、ほうとうもまた、家の延長線上にあった。囲炉裏やかまどを囲んで、鍋をつつく距離感。誰かが作り、誰かがよそい、誰かが黙って食べる。
そこには、料理を評価する視線はない。「おいしいね」と言う前に、体が温まる。ほうとうが名物になったのは、ずっとあとだ。先にあったのは、暮らし。必要。そして、続けてきた時間。
だから今でも、ほうとうにはどこか“家の匂い”が残っている。店で食べても、不思議と落ち着くのは、この料理が最初から人を迎えるためのものではなく、人と一緒に生きてきたものだからかもしれない。
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あさイチ中継が伝える、ほうとうの“今”とは?
あさイチ中継で映し出されるほうとうは、きっと湯気が立っていて、見ているだけで「あ、美味しそう」と思わせる一杯だ。それでいい。それが、今のほうとうでもある。
観光で山梨を訪れて、ほうとうを食べて、「体が温まった」「思ったより優しい味だった」そう感じた人の記憶も、間違いなく本物だ。今のほうとうは、名物として磨かれ、店ごとに工夫され、食べやすく、親しみやすくなっている。
具材の切り方。味噌の配合。とろみの具合。それぞれの台所から、それぞれの店へ。ほうとうは、暮らしの料理から、人を迎える料理へと少しずつ形を変えてきた。でも、変わらなかったものもある。鍋で煮込むこと。野菜をたっぷり使うこと。最後まで、体を温めること。
あさイチ中継が伝えているのは、「どこが一番おいしいか」ではない。ほうとうが、今もちゃんと人の暮らしの中で生きている、という事実だ。だから、どのお店から中継されてもいい。作る人の手元を映してもいい。製麺所から中継されてもいい。鍋の中を、ただ見せてくれるだけでもいい。
そこに映る湯気の向こうには、昔から続いてきた時間と、今を生きる人の生活が、同時にある。「美味しかったぁ!」その一言の裏側に、そんな背景があることを、そっと思い出させてくれる。それが、今回のあさイチ中継のいちばんの役割なのかもしれない。
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ほうとうは、かぼちゃうどん鍋じゃなかった
ほうとうは、かぼちゃが入った平たい麺の料理――そう思っていた理解は、間違いではなかった。でも、それだけでは足りなかった。ほうとうは、麺を食べる料理でも、名物を味わう料理でもない。
富士山の麓で、米がとれない土地に暮らす人たちが、小麦と野菜と味噌を使って、体を温め、生きていくために作ってきた鍋だった。かぼちゃは、彩りのためではなく、鍋全体を支えるために入れられた。とろみは、偶然ではなく、寒さと向き合うための工夫だった。
店で食べるほうとうも、観光で出会うほうとうも、その延長線上にある。だから、「美味しかった」という感想も、間違いなく正しい。ただ、その湯気の向こうには、もっと長い時間が流れている。
ほうとうは、かぼちゃうどん鍋じゃなかった。粉食の知恵であり、暮らしそのものだった。そう気づいたとき、一杯のほうとうは、少しだけ違って見える。あさイチ中継が映し出すのは、その“違い”に気づくための、ささやかなきっかけなのかもしれない。