冬の空気は、味を連れてくる。人の歩く速度が少しゆるみ、湯気や香りに、足を止める理由が生まれる季節だ。朝の番組で流れてきた映像が、そんな感覚をふと思い出させてくれた。
画面の向こうにあったのは、にぎやかさよりも、冬の土地が静かに差し出す「おいしさ」。愛媛の冬も、きっとそうだ。道後の湯のぬくもり、口に運ぶ前から甘さを想像してしまうみかん、静かに旨みを増す鯛めし。派手に語らなくてもいい。冬の愛媛は、ちゃんとおいしい。そのことを確かめに、少しだけ旅に出てみた。
静かな冬の旅へ――案内役のまなざし
旅の空気を決めるのは、場所よりも、誰の視点で歩くか、なのかもしれない。この冬の愛媛を案内してくれたのは、落ち着いた言葉と、やわらかな距離感を持つ人だった。にぎやかに魅せるよりも、「ここ、いいでしょう」と小さく示してくれるようなまなざし。道後の温泉街を歩く足取りも、どこかゆったりしている。急がせない。説明しすぎない。その土地が持つ時間に、こちらを合わせてくれる。
最近、大河ドラマ『べらぼう』への出演でも話題になったけれど、ここで感じたのは華やかさよりも、旅を“味わう側”に立つ視点だった。
だからだろう。みかんの甘さも、湯のぬくもりも、鯛めしの旨みも、どれも少し深く、静かに届いてくる。この人の歩幅で進む冬の愛媛は、気づけばこちらの呼吸まで整えてくれる。
<広告の下に続きます>
冬だからこそ、おいしい愛媛の食
冬の愛媛は、「名物です」と声を張らなくても、ちゃんとおいしいものが揃っている。たとえば、みかん。太陽の国のイメージが強いけれど、寒さを知った冬の実は、甘さに少しだけ深みが増す。ひと口で驚かせるというより、「そうそう、これだよね」と身体の奥でうなずいてしまう味。
鯛めしも、同じだ。豪華さを競う料理じゃない。けれど、冬の身の締まった鯛と、控えめな味付けが合わさると、箸を進める速度が自然とゆっくりになる。急がせない味。説明を必要としないおいしさ。
この土地の冬は、食べる人の感覚まで、静かに整えてくれる。だから、「何を食べたか」よりも、「どう味わったか」があとから残る。
<広告の下に続きます>
みかんと鯛めしが教えてくれたこと
みかんも、鯛めしも、派手な料理ではない。けれど、冬の愛媛で味わうと、どちらも不思議なくらいこちらの気持ちを落ち着かせてくれる。
鯛めしひとつとっても、愛媛にはふたつの顔がある。松山あたりで親しまれているのは、鯛の旨みを米に移した、炊き込みの鯛めし。湯気と一緒に立ち上る香りが、冬の食卓をそのまま運んできたような味だ。
一方、宇和島では、鯛の刺身を甘めのたれにくぐらせ、熱々のごはんにのせて味わう生の鯛めしがある。身の張り、たれのコク、卵のまろやかさ。こちらは、口に運ぶたびに静かな高揚がある。
どちらが正解、という話ではない。同じ土地で、同じ魚を使いながら、まったく違う表情を見せてくれる。その違いを比べること自体が、もう旅なのだと思う。
甘さは、前に出すものじゃなく、あとから気づくもの。旨みもまた、説明されるより、静かに寄り添ってくるほうがいい。みかんと鯛めしは、そんなことを、言葉を使わずに教えてくれた。
<広告の下に続きます>
エピローグ 冬の余韻を抱いて、橋を渡る
食の記憶を胸にしまって、旅の終わりに、道後の街を少しだけ歩いた。道後温泉本館の前は相変わらずにぎやかで、その賑わいを横目に見ながら、冬の愛媛の静けさを、胸の中でそっと反芻した。
夕方の空気はやわらぎ、昼間のにぎわいが嘘のように、路地には静かな時間が戻っている。湯上がりの人の足音と、遠くで聞こえる笑い声。観光地としての顔を知っているからこそ、この短い“隙間の時間”が、どこか愛おしく感じられた。
やがて車を走らせ、しまなみ海道へ向かう。島と島をつなぐ橋の上で、さっきまで味わっていたみかんの甘さや、鯛めしの旨みが、ゆっくりと記憶に変わっていく。海の色が少しずつ変わり、風が肌をなでるころ、旅は静かに次の土地へと続いていった。
<広告の下に続きます>
まとめ 入口は違っても、冬の愛媛はおいしい
今回は、愛媛を味わい、道後をかすめ、しまなみ海道を渡る旅だった。けれど、広島から橋を渡り、レモンの国を経て愛媛へ入る人もいるだろう。どちらが正解、というわけじゃない。季節や気分で、旅の入口を選べばいい。
みかんと鯛めしが教えてくれたのは、派手さではなく、土地のリズムに身を預ける心地よさだった。冬の愛媛は、どこから来ても、ちゃんとおいしい。