あさイチ中継|砂の中に、夢がある。山梨・身延町「砂金採り体験」の現場へ

砂金を探すまどか BLOG
真剣で、でもどこか楽しそうで、結果に一喜一憂していない顔。それは、砂金探しの過程を味わっている人の顔だ。
スポンサーリンク

砂の中に、ほんの一粒。でもそれは、ただの金属じゃない。山梨・身延町で体験できる「砂金採り」は、スコップとパン皿を手に、川砂と向き合う静かな時間だ。

一攫千金なんて、まず起きない。人類は古くから、金に特別な意味を与えてきた。古代エジプトでは、金は富ではなく「神々の肉体」と考えられ、永遠を願う想いとともに扱われていたという。それでも人は、砂をすくい、水に揺らし、光る何かを探してしまう。

あさイチの中継が向かうのは、かつて甲斐の国が「黄金の国」と呼ばれた記憶が残る場所。砂の中に残された歴史と、今も続く小さな“発見のよろこび”をたどる。

【放送日:2026年1月26日(月)8:15 -9:55・NHK総合】

身延町は、なぜ「黄金の記憶」を持つ町なのか? — 甲斐金山と、山の中に残る時間

山梨県身延町。身延山久遠寺の門前町として知られるこの場所は、実は「黄金の記憶」を静かに抱えてきた町でもある。

甲斐の国は、古くから金の産地として知られていた。戦国時代には、武田信玄が甲斐金山を掌握し、その産出量は国の力を支える重要な要素だったとされている。山深い土地でありながら、ここには確かに「掘り出される価値」があった。

身延町周辺でも、川砂の中に金が混じることは珍しくなかった。大きな金塊ではない。けれど、砂をすくい、水で揺らすと、光る粒が現れることがあった。それは、一攫千金の夢というよりも、自然と向き合った結果としての恵みだった。

金は、突然現れるものではない。長い時間をかけて山から削られ、川を下り、砂の中に混じる。人はその流れの、ほんの最後に立ち会うだけだ。

身延町が持つ「黄金の記憶」は、派手な成功譚ではない。山と川と人の暮らしが、ゆっくり重なってきた時間の記憶だ。だからこそ、この町で行われる砂金採り体験は、過去の再現ではなく、今も続く営みの延長線上にある。

<広告の下に続きます>

甲斐黄金村とは?砂金採り体験の舞台 — 観光でも再現でもない、「触れるための場所」

甲斐黄金村は、いわゆる「観光金山」とは少し趣が違う。派手な演出や、掘れば必ず当たるような仕掛けはない。ここで体験できるのは、本来の砂金採りに近い作業そのものだ。

用意されているのは、パン皿と水、そして砂。やることは単純で、砂をすくい、水の中でゆっくりと揺らす。軽いものを流し、重いものだけを残していく。その動きは、機械的でも、効率的でもない。むしろ、余計な力を抜いたほうがうまくいく。

甲斐黄金村の「砂金採り体験室」は、初めての人でも取り組めるように整えられている。けれど、“簡単に結果が出る”ようにはできていない。だからこそ、ほんの小さな金色が現れたとき、自然と声が出る。「本当にあるんだ!」と。

それは、展示を見て知る歴史とは違う。自分の手を動かし、水の流れを感じ、目を凝らした先で出会う、実感としての金だ。観光としての面白さはありながら、体験の中身は驚くほど静か。だから、子どもも、大人も、つい無口になって、砂と向き合ってしまう。

甲斐黄金村は、金を「見せる」場所ではなく、金と向き合う時間を用意する場所なのだ。

<広告の下に続きます>

砂金採りは、思っているより静かな体験 — 夢中になると、言葉がいらなくなる

砂金採りと聞くと、どうしても賑やかなイメージを思い浮かべてしまう。歓声が上がり、当たり外れに一喜一憂するような光景だ。けれど実際の砂金採り体験は、驚くほど静かだ。

パン皿を手に、水の中で砂をゆっくり揺らす。力を入れすぎると、大切なものまで流れてしまう。焦らず、急がず、水の動きに身を任せる。次第に、周りの音が遠のいていく。

誰かと一緒に来ていても、自然と会話が減る。目は手元に落ち、意識は、砂と水の境目に集中していく。見つかるのは、ほんの小さな金色の粒だ。

一瞬、光ったように見えて、見間違いかもしれないと思う。それでも、もう一度そっと揺らすと、確かにそこに残っている。その瞬間、大きな声は出ない。拍手もいらない。ただ、「ある」という事実が、静かに胸に落ちてくる。

砂金採りが教えてくれるのは、結果よりも過程だ。自分の手を動かし、水の流れを読み、何度も失敗しながら、少しずつ感覚をつかんでいく。

経験することでしか、わからないことがある。昔、さぬきで出会ったおばちゃんの言葉のように、やってみて初めて、腑に落ちる感覚がある。「なんでも、やらないうちからバカにしてやらないのが一番悪い!」って言ってたっけな。

砂金採りは、欲を刺激する体験ではない。むしろ、欲をいったん脇に置いた人ほど、深く味わえる時間なのだ。

<広告の下に続きます>

なぜ人は、砂の中に金を探してしまうのか? — 欲より先に、手が動いてしまう理由

砂金採りの不思議なところは、「儲かるから」だけでは説明できないところにある。実際、砂の中から見つかる金は、ほんのわずかだ。それで人生が変わることは、まずない。誰もがそのことを、頭ではわかっている。それでも人は、砂をすくい、水に揺らし、金色を探してしまう。

理由は、金そのものよりも、「見つける行為」にあるのかもしれない。自分の手を動かし、目を凝らし、集中していた先に、小さな結果が現れる。それは、偶然ではなく、自分がそこに向き合った証だ。だから、見つけた瞬間に感じるのは、欲よりも先に、「ちゃんと見ていた」という実感なのだと思う。

先のさぬきで出会ったおばちゃんは「やらないうちからバカにするのが一番悪い」という言葉も、この体験とよく重なる。価値があるかどうかは、やってみなければわからない。意味があるかどうかも、触れてみなければ判断できない。

砂金採りは、人の欲を試す体験ではない。むしろ、人の向き合い方を映す体験だ。集中できるか。待てるか。小さな変化を見逃さないか。金は、その答え合わせをするかのように、静かに姿を現す。

<広告の下に続きます>

あさイチ中継が伝える、“当たらなくても楽しい”理由とは? — 月曜の朝に、ちょうどいい体験

あさイチの中継が、砂金採り体験を取り上げる理由は、「金が出るから」だけではない。むしろ”宝くじ”と違って、大当たりがないことが、この体験のいちばんの魅力なのかもしれない。

砂金採りは、結果がすぐに出ない。出たとしても、ほんの小さな一粒だ。だからこそ、誰かと競い合う必要もなく、失敗して落ち込むこともない。

月曜の朝。一週間が始まるその時間に、求められているのは、刺激よりも、落ち着いて手を動かす感覚なのだと思う。砂をすくい、水に揺らし、目の前のことに集中する。その間だけ、仕事のことも、先の予定も、少し脇に置ける。

あさイチ中継が映し出すのは、「当たった!」「すごい!」という瞬間よりも、体験している人たちの表情だ。真剣で、でもどこか楽しそうで、結果に一喜一憂していない顔。それは、過程を味わっている人の顔だ。

当たらなくても、ちゃんと楽しい。何も手に入らなくても、時間は無駄にならない。砂金採りは、日常の中で、忘れがちな感覚を思い出させてくれる。「やってみたら、意外とよかった」そんな感想が、月曜の朝には、ちょうどいい。

<広告の下に続きます>

砂金採りは、現代の「小さな冒険」 — 遠くへ行かなくても、人は冒険できる

冒険と聞くと、人はつい、遠くへ行くことを思い浮かべる。危険を冒し、大きな成果を手にする物語を想像する。けれど、身延町の砂金採り体験が教えてくれるのは、まったく違う形の冒険だ。

特別な装備はいらない。知識がなくても始められる。必要なのは、砂と水と、ほんの少しの時間だけ。パン皿を手に取り、水の流れを感じながら、目の前の砂と向き合う。そこには、正解も、近道もない。だからこそ、自分の感覚が頼りになる。

集中し、待ち、見逃さず、もう一度やってみる。それは、現代の生活の中で、意外と失われがちな時間だ。金が見つかっても、見つからなくてもいい。大切なのは、「やってみた」という事実が、ちゃんと自分の中に残ること。

砂金採りは、一攫千金の夢ではなく、自分の手で世界と関わる感覚を取り戻す冒険なのだ。遠くへ行かなくても、危険を冒さなくても、人はまだ、こんなふうに冒険できる。砂の中に、夢がある。それは、誰かの話ではなく、自分の手で確かめられる夢だ。

タイトルとURLをコピーしました