美の壺|なぜ備前焼は“景色”と呼ばれるのか?──土に息吹く火が生んだ美

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備前焼の器を前にすると、同じ表情のものは一つとして存在しない。それは窯の中で起こる「窯変」にある。
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釉薬も絵付けも施さず、ただ土をこね、火に委ねる。備前焼は、装うことを最初から選ばなかった器である。

高温の窯の中で、薪の灰が降り、炎が舐め、偶然が重なって生まれる模様は「景色」と呼ばれる。それは人が描いたものではなく、土と火が長い時間をかけて刻んだ痕跡だ。

千年を超えて受け継がれてきた備前焼は、飾るための工芸ではなく、使われ、暮らされ、時を重ねるための器だった。その無骨さの奥に、なぜこれほどの美が宿るのか?

『美の壺』が見つめるのは、土に息吹き、火に鍛えられてきた備前焼という存在そのものだ。

【放送日:2026年2月15日(日)23:00 -23:30・NHK-Eテレ】

なぜ備前焼には釉薬がないのか?──「焼き締め」という選択

備前焼の最大の特徴は、釉薬を一切使わないことにある。艶も色も、あとから“足さない”。土と火だけで完結させる。それが備前焼の出発点だ。

多くの陶磁器は、焼成の前に釉薬を掛けることで表面にガラス質の層をつくり、色や光沢を与える。一方、備前焼はそうした装いを最初から選ばなかった。成形した器を、そのまま高温の窯に入れ、1200度を超える炎の中で、長い時間をかけて焼き締める。

この「焼き締め」によって、土の粒子は強く結びつき、器は非常に硬く、丈夫になる。水を通しにくく、使い込むほどに手になじむ。見た目は素朴でも、暮らしの中でこそ力を発揮する器だ。

萩焼もまた、どこか柔らかく、土の気配を感じさせる焼き物だが、こちらは釉薬を掛けて焼かれている。同じ「素朴」に見えても、その成り立ちは異なる。萩焼は釉と土の関係を楽しむ器であり、備前焼は、釉を介さず、土そのものと向き合う器なのである。

釉薬を使わないという選択は、装飾を捨てたのではない。代わりに備前焼は、炎の当たり方、灰の降り方、器の置かれた位置によって生まれる、無数の表情を引き受ける道を選んだ。その結果として現れるものが、後に「景色」と呼ばれる窯変なのだ。

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土と火が描く「景色」──備前焼における窯変とは?

備前焼の器を前にすると、同じ形であっても、同じ表情のものは一つとして存在しない。その理由が、窯の中で起こる「窯変(ようへん)」にある。

窯変とは、焼成中に炎や灰、温度の差によって生まれる、予期しない色や模様の変化のことだ。備前焼では、釉薬を使わない分、土の表面は直接、火と灰にさらされる。その結果、器の置かれた位置や、薪の燃え方、炎の流れによって、表情は大きく変わっていく。

たとえば、薪の灰が降り積もって溶け、胡麻を振ったような模様になる「胡麻」。藁を巻いて焼くことで、赤い線状の模様が現れる「緋襷」。炎が激しく当たった部分が黒く焼き締まり、荒々しい表情を見せる「桟切」。これらはすべて、人が描いたものではない。

胡麻(出典:末石窯)
緋襷(出典:川口陶楽苑)
緋襷(出典:川口陶楽苑)
桟切(出典:興楽園)
桟切(出典:興楽園)

作り手ができるのは、土を選び、形をつくり、器をどこに置くかを考えるところまで。あとは窯に委ねる。火がどう回り、灰がどう落ちるかは、最後まで分からない。だから備前焼では、模様や色を「装飾」とは呼ばず、「景色」と呼ぶ。それは、意図してつくった図柄ではなく、窯の中で起きた出来事の痕跡だからだ。

窯変は、偶然の産物である。だがそれは、無秩序な偶然ではない。土と火に長く向き合ってきた経験があってこそ、その偶然を受け止める準備が整う。備前焼の美しさは、完成形を決めきらないところにある。

人がすべてを支配しないからこそ、土と火が語り出す瞬間が生まれる。その「語り」を味わうこと。それが、備前焼を見るということなのかもしれない。

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偶然は、なぜ美になるのか?──曜変天目と備前焼の違いとは?

窯変という言葉を聞くと、多くの人が思い浮かべるのが、曜変天目茶碗だろう。漆黒の釉の中に、星雲のような光彩が浮かぶその姿は、「奇跡の茶碗」とも呼ばれている。

曜変天目茶碗(出典:Life with Pagong.)
曜変天目茶碗(出典:Life with Pagong.)

曜変天目もまた、焼成中の偶然が生んだ美である。どのような条件が重なればあの模様が現れるのか、いまなお完全には解明されていない。意図して再現することが極めて難しいからこそ、曜変天目は希少で、特別な存在として扱われてきた。

一方、備前焼の窯変はどうだろうか? こちらも完成形は分からない。だが、目指しているのは「奇跡」ではない。備前焼では、偶然は一度きりの例外ではなく、必ず起こるものとして受け止められている。どんな景色が現れるかは分からないが、必ず何かが現れる。その前提で、土と火に向き合い続けてきた。

曜変天目が、「たまたま生まれてしまった奇跡」だとすれば、備前焼は、偶然とともに生きる覚悟を選んだ焼き物と言えるかもしれない。

焼き手にとって、窯を開ける瞬間は、祈りにも似ている。狙いどおりにならなかった器もある。思いもよらぬ表情を見せる器もある。だが、そのどれもが、火と土が出した答えだ。備前焼の美は、成功か失敗かで測られない。出来上がった結果を、「どう受け取るか」という姿勢そのものが、美を形づくっている。

偶然は、制御できない。けれど、それを拒まず、長い時間をかけて付き合ってきたからこそ、備前焼の窯変は、美として定着した。必死に焼き、必死に待ち、そして必死に受け止める。その積み重ねが、「偶然は美になる」という感覚を、この土地に根づかせてきたのだ。

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巨大な器に宿る土の力──陶芸家・星野聖さんの大壺

備前焼というと、湯呑や徳利のような、手に収まる器を思い浮かべる人も多い。しかし、その世界には、人の身体を超えるスケールの仕事も存在する。陶芸家・星野聖さんが手がける「大壺」は、その象徴だ。

大量の土を前にし、ろくろの回転と身体の動きで形を立ち上げていく作業は、技巧というより、力と時間を引き受ける行為に近い。

星野聖・作 備前焼 大壺(出典:白白庵)
星野聖・作 備前焼 大壺(出典:白白庵)

大きな器は、それだけで難しい。自重で歪み、乾燥の具合も均一にならない。焼成では、温度差がより顕著に表れ、小さな器では問題にならない要素が、すべて結果に影響する。それでも、備前の土は応える。押され、引かれ、回されながら、最後まで形を保ち、火に耐える。そこには、土そのものが持つ強さがある。

星野さんの大壺に現れる景色は、繊細というより、圧倒的だ。灰が厚く降り、炎が舐めた痕跡が、そのまま残る。器の表面は、装飾ではなく、焼かれた時間そのものをまとっている。

巨大な器であっても、備前焼の基本は変わらない。釉薬を使わず、完成形を決めきらず、土と火に委ねる。ただし、委ねる量が違う。使う土の量も、受け止める不確かさも、格段に大きい。

だからこそ、この仕事は、備前焼が持つ本質を、よりはっきりと浮かび上がらせる。人の手で形づくられ、自然の力で完成する。

星野聖さんの大壺は、備前焼が単なる日常の器にとどまらず、土そのものの表現であることを、静かに示している。

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人間国宝・金重陶陽から続く土──伝統の「土づくり」

備前焼の歴史を語るとき、避けて通れない名前がある。備前の陶工として初めて人間国宝となった 金重陶陽 である。

陶陽が重んじたのは、技法や形以前に、だった。備前焼に使われる土は、単に掘ってきて成形できるものではない。細かく砕き、ふるいにかけ、時間をかけて寝かせる。不純物を取り除き、粘りと強さのバランスを整える。その工程は、目立たないが、焼きの成否を左右する根幹である。

陶陽の仕事は、派手な革新ではない。むしろ、土と向き合う姿勢を徹底的に磨き上げ、「備前焼は何によって備前焼であり続けるのか」を示した点にある。その考え方は、弟子や後進へと静かに引き継がれていった。現在、その流れを受け継いでいるのが、兄の 金重周作 さんと、弟の 金重陽作 さん兄弟だ。

二人が大切にしているのもまた、「どう焼くか?」以前の、「どう土をつくるか?」という姿勢である。土づくりは、すぐに結果が出る作業ではない。時間をかけ、失敗を重ね、ようやく「この土なら火に耐える」と分かる。その積み重ねが、器の強さや、窯変が美しく現れるかどうかを左右する。

金重家の備前焼には、見た目の共通点以上に、考え方の連続性がある。完成形を先に決めすぎないこと。土と火に任せる余地を残すこと。そして、日常で使われる器であることを忘れないこと。

人間国宝という称号は、個人の到達点を示すものかもしれない。だが、備前焼においてそれは、土と向き合う姿勢が、世代を超えて続いてきた証でもある。

この章で語られるのは、名声ではなく、静かな継承だ。目に見えない土づくりの積み重ねが、今日の備前焼を、確かに支えている。

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暮らしの中で育つ備前焼──使うことで完成していく器とは?

備前焼は、飾られるよりも、使われることで本領を発揮する器だ。
釉薬を持たない表面は、最初はざらりとして、どこか無骨に見える。だが、水を注ぎ、酒を注ぎ、手に取る回数が増えるにつれて、少しずつ表情が変わっていく。水を含み、乾き、また含む。その繰り返しの中で、土は落ち着き、色は深まり、器は使い手の暮らしに馴染んでいく。

艶は後から生まれる。それは磨いた結果ではなく、時間が与えたものだ。備前焼の器は、完成形を出荷の時点で迎えない。使われることで、はじめて完成に近づく。

それは、作り手が仕事を放棄したからではない。むしろ、使い手に最後の一手を委ねているからだ。酒器は、酒の性格を映す。花器は、季節の移ろいを受け止める。料理を盛れば、派手に主張せず、素材の色や質感を引き立てる。備前焼は、常に一歩引いた場所に立つ。だからこそ、長く使われる。

欠けても、割れても、金継ぎをして使い続ける人がいる。「きれいだから」ではなく、一緒に時間を過ごしてきたから手放せない。暮らしの中で育つということは、器が変わるだけではない。使い手の感覚も、少しずつ変わっていく。

手に伝わる重さ、口当たり、温度。そうしたものに、自然と意識が向くようになる。備前焼は、使う人に多くを要求しない。ただ、黙って付き合い続ける。その姿勢が、「完成は使う側にある」という考え方を、静かに教えてくれる。

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土に息吹くもの──美の壺が見つめた備前焼

備前焼は、特別な瞬間のためだけに存在する器ではない。派手さも、分かりやすい美しさも持たない代わりに、使われる時間そのものを受け止めてきた。

釉薬を使わず、完成形を決めきらず、土と火に多くを委ねる。その姿勢は、効率や再現性とは相容れない。けれど、だからこそ、備前焼は千年を超えて残ってきた。

窯の中で生まれる「景色」は、人がすべてを支配できないことを、静かに示している。思いどおりにならないからこそ、そこに向き合い、受け止め、使い続ける意味が生まれる。

備前焼の器は語らない。だが、日々の暮らしの中で、水を注ぎ、火にかけ、食卓に並ぶことで、確かに息づいていく。

『美の壺』が映し出したのは、技巧や名声ではなく、土と火と人が、長い時間をかけて結んできた関係だった。飾らず、たくましく、それでも確かな美を宿す。備前焼は、土が生きてきた時間そのものを、私たちの手元へと差し出している。

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