この年末年始、家でやることもなく、なんとなくテレビをつけて過ごしている人も多いはずだ。大掃除も一段落して、外に出るほどでもない。そんな時間に、ふと流れてくるのが「不思議の国のアリス」だったら——少しだけ、心が引っかかる。
子どもの頃に読んだはずなのに、内容はあまり覚えていない。ただ、奇妙で、理不尽で、でもなぜか印象に残っている物語。白ウサギを追いかけて落ちた先で、大人の世界のルールが、次々と裏返っていく。
今回の番組で芦田愛菜が案内するのは、そんな「不思議の国のアリス」の原点。荒唐無稽に見える物語の奥に、作者ルイス・キャロルが込めた、少し切実で、やさしいメッセージをたどっていく旅だ。
「これは子どものお話だから」とどこかで距離を置いてきた人ほど、この年末年始に、もう一度出会い直す意味があるのかもしれない。アリスの世界は、大人になりかけた心にこそ、静かに問いを投げかけてくる。(放送:2025年12月29日・NHK-BS4K)
荒唐無稽に見える「不思議の国のアリス」は、なぜ生まれたのか?
「不思議の国のアリス」を初めて読んだとき、多くの人は戸惑う。話は唐突に始まり、会話は噛み合わず、計算は間違いだらけ。大人の世界で身につけてきた“常識”が、次々と裏切られていく。けれど、その荒唐無稽さこそが、この物語の出発点だった。
白ウサギを追いかけて穴に落ちたアリスが出会うのは、理屈が通らないのに、なぜか自信満々な大人たち。理由は説明されず、決まりは一方的に変わり、「そういうものだから」と押し切られる。どこかで覚えがある、と思った人もいるかもしれない。
若いころ、大人の世界に足を踏み入れたときに感じた「それって違うんじゃないか」という違和感。納得できないまま、正しそうな言葉だけが並べられる場面。アリスの世界は、現実からかけ離れているようでいて、実はとても現実的だ。
荒唐無稽に見える出来事は、大人の論理をそのまま拡大し、少し歪めて見せているにすぎない。だからこそ、この物語は「意味不明」なまま終わらない。読む人の心に、言葉にできない引っかかりを残す。それは、子どものためのファンタジーであると同時に、大人になりかけた心が抱える違和感を、そっとすくい上げる物語でもあった。
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作者ルイス・キャロルは、何に違和感を抱いていたのか?
「不思議の国のアリス」を、ただのナンセンスな物語だと思って距離を取ってしまう大人は多い。「もう子ども向けの話はいい」そんなふうに、少し身構えてしまうのも無理はない。けれど、この物語を書いたルイス・キャロル自身が、実はとても理屈っぽく、同時に“理屈が行き過ぎた世界”に強い違和感を抱いていた人物だった。
キャロルは数学者だった。数字や論理を扱う世界に身を置きながら、当時の教育や社会に広がっていた「正しさ」や「秩序」が、いつの間にか人を縛るものに変わっていく様子を、冷静に見つめていた。
物語に登場する、間違いだらけの計算や、意味の通らない議論、結論ありきの裁判。それらは、子どもを笑わせるための仕掛けであると同時に、「正しいはずの論理」が暴走した姿でもある。
大人たちは、自分の言っていることが正しいと信じて疑わない。けれど、その正しさが、誰かを置き去りにしてはいないか。キャロルは、そんな問いを、真正面から語る代わりに、荒唐無稽な物語の形で差し出した。
だから「アリス」は、説教をしない。答えを押しつけない。ただ、「それって本当に正しいの?」と、読者の足元に小さな穴を開ける。大人になった今だからこそ、この問いは、子どものころよりも深く響く。理屈を知り、世界の仕組みを覚えたからこそ、その違和感に気づけるようになるのだ。
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実在した少女アリスに向けられた、やさしいまなざし
「不思議の国のアリス」は、社会や論理への皮肉だけでできた物語ではない。その奥には、とても個人的で、やさしいまなざしがある。物語のモデルとなったのは、実在した少女アリス。作者の ルイス・キャロル は、彼女に語り聞かせるために、この物語を紡ぎ始めたと言われている。
だからこの物語には、誰かを論破するための言葉は出てこない。代わりにあるのは、理屈が通らなくても、納得できなくても、「それでもいいんじゃない?」と寄り添うような視線だ。白ウサギを追いかけるアリスは、賢く、礼儀正しく、でも世界のルールを鵜呑みにしない。
間違っていると感じたら、立ち止まり、首をかしげる。その姿は、大人になる途中の心そのものに見える。キャロルは、アリスに「正しい答え」を教えようとはしなかった。代わりに、問いを問いのまま差し出した。
混乱してもいい。わからなくてもいい。それでも、自分の感覚を手放さなくていい。荒唐無稽に見える物語が、どこかあたたかく感じられるのは、そこに誰かを導こうとする意図ではなく、一緒に迷おうとする気持ちがあるからだ。「不思議の国のアリス」は、子どものための物語であると同時に、かつて子どもだったすべての人に向けて、そっと書かれた物語なのかもしれない。
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なぜ今、芦田愛菜がアリスの案内役なのか?
この旅の案内役が、芦田愛菜であることには、はっきりとした意味がある。芦田愛菜は、子どもとしての時間を十分に生きてきた人だ。同時に、もう「子ども」という言葉だけでは括れない場所に立っている。
大人の言葉を理解し、大人の世界に足を踏み入れながらも、まだすべてを受け入れきってはいない。それは、「不思議の国のアリス」に描かれたアリスの立ち位置と、とてもよく似ている。
アリスは、世界を疑う。でも、斜に構えない。納得できないことを、「納得できない」と感じる自分を、そのまま手放さない。芦田愛菜の語りには、そんなアリスの視線が自然に重なっていく。
もし、すべてを知り尽くした大人が案内役だったら、この旅は「解説」になってしまったかもしれない。逆に、完全な子どもでは、物語の奥にある問いに、手が届かない。芦田愛菜は、そのちょうど中間にいる。わかったふりをせず、かといって、無邪気に流されることもない。「これはどういう意味なんだろう?」と、立ち止まることができる人だ。
だからこの番組は、答えを教えない。代わりに、一緒に考える時間を差し出してくる。「不思議の国のアリス」は、子ども向けの物語でも、大人向けの教訓でもない。大人になりかけた心のための物語だ。そして今、その境界に立つ芦田愛菜が案内することで、この物語はもう一度、私たちの現在に静かにつながっていく。
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まとめ:荒唐無稽な物語が、そっと残すもの
「不思議の国のアリス」は、見終わったあとに、はっきりとした答えを残す物語ではない。世界の理不尽さを暴くわけでもなく、生き方を教えてくれるわけでもない。ただ、「それって本当に正しいのかな」という小さな違和感を、心のどこかに置いていくだけだ。
年末年始の、少し時間を持て余した夕方。特別な期待もなく、何気なく見始めた番組だったとしても、その違和感は、思ったより長く残るかもしれない。
大人になる途中で、知らず知らずのうちに手放してきた感覚。納得できないことに、納得できないと言ってよかった気持ち。アリスの世界は、それらを無理に取り戻そうとはしない。ただ、「まだそこにあるよ」と、静かに教えてくれる。
芦田愛菜とめぐるこの旅は、答えを探すためのものではない。立ち止まって考える時間を、そっと差し出してくれるだけだ。荒唐無稽に見える物語が、今も読み継がれている理由は、そこにあるのかもしれない。大人になりかけた心にも、大人になった心にも、同じように、静かに居場所を残してくれるから。