忘れ物をする。やろうと思っていたことを、別のことに気を取られて忘れてしまう。長い話を聞いているうちに、いつの間にか別のことを考えている。じっと座っているより、動いているほうが楽。……あれ?これだけ並べると、いくつかは自分にも当てはまる気がしませんか?
今回の『ヒューマニエンス』のテーマは、「ADHD(注意欠如・多動症)」。不注意、多動性、衝動性などの特徴があり、それによって日常生活に大きな支障が生じる場合、ADHDと診断されることがあります。
でも、ここで少し引っかかりました。忘れ物なんて、誰だってするよね?落ち着かない日だってあるし、集中できないこともある。もちろん、だからといって「誰もが少しずつADHDだ」ということではありません。
それでも、ADHDで語られる一つひとつの特徴だけを取り出してみれば、私たちの多くにも思い当たるところがあります。では――どこからが「障害」で、どこまでが「個性」なのでしょう? そして、私たちが自分を「正常だ」と思っている根拠は、いったい何なのでしょう。
診断には医学的な基準があります。けれど、人間の脳に最初から一本の線が引かれていて、「こちら側が普通、ここから向こうがADHD」と分かれているのでしょうか?さらに難しいのが、「生活に支障がある」という言葉です。
本人は「別に困っていない」と思っていても、一緒に暮らす家族は困っているかもしれない。学校では問題にならなかったことが、社会に出た途端、大きな壁になることもあるかもしれない。では、その「支障」は誰が決めるのでしょう。
本人? 家族? 職場? それとも医師?
以前、私の同僚が退職するとき、こんなことを話してくれました。「実は俺、発達障害だって診断されてたんだ」それまで私は、その人を「あまり仕事が得意ではない人」くらいに思っていました。
ところが、そのひと言を聞いた瞬間、もしかすると、本人には本人にしか分からない“やりにくさ”があったのではないか。そんなことを初めて考えました。診断を知ったからといって、その人が別人になったわけではありません。変わったのは、むしろ私の「見方」のほうでした。
ADHDとは、いったい何なのでしょう。そして私たちが何気なく使っている「普通」という物差しは、いったい誰が、どこに置いたものなのでしょう。今回は『ヒューマニエンス』をきっかけに、ADHDという一つの診断名から、人間の“障害”と“個性”を分けている線について考えてみたいと思います。
【放送日:2026年10月9日(金)22:00 -22:59・NHK-BSP4K】
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誰にでもある特徴なのに、どこからADHDになるの?
「あれっ?鍵、どこに置いたっけ?」
「さっきまで覚えていたのに、すっかり忘れてた」
「話を聞かなきゃいけないのに、いつの間にか別のことを考えていた」
こんな経験なら、きっと多くの人にあるでしょう。じっと座っているのが苦手な人もいれば、思いついたことをすぐ口にしてしまう人もいます。そう考えると、ADHD(注意欠如・多動症)の特徴として挙げられる「不注意」「多動性」「衝動性」は、ADHDと診断された人だけに見られる、まったく特殊なものには思えません。ここで、タイトルにもした疑問が浮かびます。
誰でも、少しは「ADHD」なの?
もちろん、医学的にはそういうことではありません。ADHDは診断名ですから、「今日は忘れ物をしたから、今日はちょっとADHD」というものではありません。
診断では、単に不注意や落ち着かなさがあるかだけではなく、それらが一定の期間続いているか、子どものころから見られたか、家庭や学校、職場など複数の場面で現れているか、そして日常生活や社会生活に支障を生じているかなど、さまざまな点が検討されます。
なるほど。それなら「普通の忘れ物」とADHDは、きちんと区別できそうです。……でも、ここでまた「ん?」となりました。たとえば、不注意の程度を一本の線の上に並べてみたらどうでしょう。ほとんど忘れ物をしない人がいて、たまにする人がいて、かなり頻繁にする人がいる。
落ち着かなさや衝動性についても、おそらく「ある・ない」の二種類だけではなく、その間にはさまざまな程度があります。だとしたら、ADHDの人だけが持っている特別な特徴があるというより、私たちにも見られる特徴が、程度や組み合わせ、生活への影響によって診断につながる。そんなふうに考えたほうが分かりやすそうです。
だから「誰だって少しはADHDなの?」という問いには、少しややこしい答えになります。誰もが少しずつ「ADHD」という診断を持っているわけではない。けれど、ADHDという診断で見ている人間の特徴まで、ADHDの人だけが持っているわけでもない。
ここは、似ているようでずいぶん違います。そして、もう一つ気になることがあります。私たちは普段、自分について「ADHDではない」と考えることはあっても、「自分はなぜ“正常”だと思っているのだろう?」とは、あまり考えません。
私も周囲の人とそんな話をしたことがあります。「自分にも、発達障害と呼ばれるような特徴が少しくらいあるのかもしれない」そう話すと、「お前はそうかもしれないけど、俺は絶対に正常だよ(笑)」そんな答えが返ってきたこともありました。もちろん、ごく少人数との雑談ですから、そこから何か一般的な結論を導くことはできません。
でも、ひとつだけ不思議でした。その「絶対に正常」の根拠って、何だろう? 健康診断の結果に「正常」と書いてあったわけではありません。脳を調べてMRIを撮って、「あなたには不注意も衝動性も一切ありません」と証明されたわけでもありません。それでも私たちは、いつの間にか自分を「こちら側」に置いていることがあります。
もちろん医療には診断基準が必要です。診断を行い、必要な治療や支援につなげるためにも、一定の基準がなければ保健医療などの社会の仕組みそのものが動きません。けれど――。制度として線を引かなければならないことと、人間そのものが、その線できれいに二つに分かれていることは同じなのでしょうか?
診断基準はある。では、その線は絶対なのでしょうか? どうやらADHDを知ろうとすると、ADHDと診断された人だけを見ていても分からないようです。むしろ最初に確かめなければならないのは、私たちが何気なく立っていると思っている、「正常」という側の足元なのかもしれません。
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診断基準はある。でも、その線は絶対なの?
では、ADHDかどうかは、どうやって判断するのでしょう。もちろん、お医者さんが患者を見て、「うーん、あなたはちょっと落ち着きがないからADHDですね」と、その日の印象だけで決めているわけではありません。
ADHDには診断基準があります。代表的なものの一つが、アメリカ精神医学会が作成している「DSM」です。そこでは、不注意や多動性・衝動性について具体的な項目が示され、その状態が一定期間続いていること、子どものころから症状が見られること、家庭だけ、あるいは職場だけではなく複数の場面で現れていること、さらに社会生活や仕事などに支障を与えていることなどを総合して診断します。
こうした基準があることには、大切な意味があります。同じ状態を医師個人によってまったく違う尺度で判断していたら、診断そのものが成り立ちません。そして診断は、ただ人に名前をつけるためにあるのではなく、必要な治療や支援につながる入口にもなります。
だから、一定のところに線を引く必要がある。ここまでは分かります。でも――。その線は、人間の中にも同じようにはっきり存在しているのでしょうか? たとえば身長なら、170センチと169.9センチには、測れば0.1センチの違いがあります。
ところが、「忘れ物が多い」「気が散りやすい」「じっとしているのが苦手」「思いついたことをすぐ行動に移してしまう」といった人間の特徴は、ものさしを当てて何センチと測れるものではありません。しかも前の章で見たように、これらはADHDの人だけに存在する特徴でもありません。程度の差こそあれ、多くの人に見られます。
だとすると、診断基準とは、自然界に存在していた境界線を発見したものなのか? それとも、連続している人間の特徴を、診断や治療、支援のために一定の基準で区切ったものなのか? ここは区別して考える必要がありそうです。
だからといって、「そんな線は人間が決めたものなのだから意味がない」と言いたいわけではありません。むしろ逆です。連続しているものを社会の制度の中で扱おうとすれば、どこかに基準が必要になります。健康診断の数値だって、学校の合格点だって、さまざまな制度には境界があります。
境界がなければ制度として運用できない。でも、「線を引く必要がある」ことと、「その線が絶対である」ことは、同じではありません。
ここで、診断する側だけではなく、診断される側から考えてみます。基準のすぐこちら側にいる人と、すぐ向こう側にいる人。二人の間には、まったく違う種類の人間と言えるほどの差があるのでしょうか。診断名がついた瞬間、その人の脳が突然変化するわけでもありません。
昨日までなかった特徴が、その日から突然現れるわけでもありません。変わるのは、その人の状態を理解するために、「ADHD」という名前が与えられること。その名前によって、それまで「だらしない」「落ち着きがない」「努力が足りない」と受け取られていたものが、別の角度から理解できるようになることもあるでしょう。
そして必要な支援へつながることもあります。診断名には、そうした大切な役割があります。一方で、診断名がついたことで、その人の行動のすべてを、「ADHDだから」と説明したくなってしまう危うさもあります。
人間は、診断名ひとつで説明できるほど単純ではありません。私が以前一緒に働いていた職場の同僚もそうでした。退職するときに初めて、「実は俺、発達障害だって診断されてたんだ」と教えてくれました。その瞬間に彼が変わったわけではありません。昨日まで一緒に働いていた人と、まったく同じ人です。
ただ、私の中には初めて、「本人には、こちらからは見えない“やりにくさ”があったのかもしれない」という視点が生まれました。診断とは、人間を「正常」と「異常」に分けるためだけの線ではなく、それまで見えなかった困難を見つけるための線でもあるのかもしれません。
そう考えると、線があること自体を否定する必要はなさそうです。問題は、その線を人間そのものの境界線だと思ってしまうことなのではないでしょうか。
ところが、ここでさらに厄介な言葉が出てきます。ADHDの診断を考えるうえで重要になる、「生活に支障がある」という言葉です。
一見すると、とても分かりやすい基準です。でも――。本人が、「いや、俺は別に困ってないよ」と言っている横で、家族が、「こっちは毎日困ってます!」と言ったら? 職場では問題になっているのに、家庭では何の問題もなかったら?反対に、周囲には何でもなく見えているのに、本人だけが必死に帳尻を合わせながら生活していたら?
そこで、また新しい「ん?」が生まれます。生活に支障があるかどうか――それはいったい、誰が決めるのでしょう。そして、もう少し意地悪な聞き方をするなら、そのときの「当事者」って、いったい誰なのでしょうか? 診断の線をたどっていたはずなのに、どうやら私たちは、人間と人間の間にあるところまで来てしまったようです。
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「生活に支障がある」って、誰にとって?
ADHDの診断について調べていると、何度も出てくる言葉があります。
「日常生活や社会生活に支障をきたしている」
なるほど。忘れ物をするだけなら、私だってする。でも、それによって生活がうまくいかなくなるほどなら「障害」として考える。一見すると、とても分かりやすい話です。ところが、この「支障」という言葉を少し考え始めると、途端に分からなくなってきます。
たとえば、こんな人がいたとします。忘れ物がとても多い。家を出たあとに「あれを忘れた」と戻ってくる。約束を忘れる。大切な書類をどこへ置いたのか分からなくなる。本人に、「困っていませんか?」と尋ねると、「別に。それほど困ってないよ」と答える。ところが隣にいる家族は、「困ってます。私が全部フォローしてるんですから」と言う。
さて――。この人の生活には、「支障がある」のでしょうか? 本人だけを見れば、それほど困っていないと言っている。けれど、それは本当に支障がないからなのか。それとも、誰かが予定を覚え、忘れ物を確認し、失くしたものを探し、知らないうちに生活の穴を埋めているからなのでしょうか。
もちろん、だから家族の判断をそのまま本人の診断に置き換えればいい、という話でもありません。今度は反対の場合があるからです。家族や職場から見れば、「普通にできているじゃない」と思われている。ところが本人は、忘れないように何重にもメモを取り、予定を何度も確認し、人に迷惑をかけないよう常に神経を張りつめている。
外から見れば「支障なし」。本人の中では、毎日が必死。そんなことだってあるでしょう。こうなると、「生活に支障があるか」だけでは、まだ問いが足りないように思えてきます。誰の生活に、どんな支障が、どれくらい生じているのか。そこまで見なければ、その人が実際に経験している困難は見えてこないのかもしれません。
さらに話をややこしくするのが、環境です。学校では、決められた時間に席に座り、先生の話を聞き、忘れ物をせず、提出期限を守ることが求められます。会社に入れば、複数の仕事に優先順位をつけ、時間を管理し、周囲と連携しながら仕事を進めることを求められたりします。
そうした環境では大きな困難になる特徴が、別の環境でもまったく同じように困難になるとは限りません。すると、「支障」というものが少し違って見えてきます。その人の中だけに「障害」があるのではなく、その人の特性と、その人が置かれた環境との間で、困難が大きくなったり小さくなったりすることもある。
もちろん、これも「環境さえ変えればADHDによる困難はなくなる」という意味ではありません。環境を整えても残る困難はあるでしょうし、治療や具体的な支援を必要とする人もいます。
だからこそ、簡単ではないのです。本人だけを見ても足りない。家族だけを見ても足りない。学校や職場だけを見ても足りない。そして周囲が「困っている」と言うことと、本人に医学的な意味でADHDがあることも、同じではありません。
ここまで来ると、私は「当事者」という言葉まで分からなくなってきました。ADHDと診断された本人が当事者であることは間違いありません。でも、その人と毎日暮らし、生活を支えている家族が疲れ切っていたら、その困難について家族もまた無関係ではありません。
職場で仕事を分担している人にも、影響が生じる場合があります。だからといって、多数決で、「周りのみんなが困っています。だからあなたには障害があります」と決めることもできないでしょう。
ここには、どうしても一枚の物差しでは測れないものがあります。本人が感じている困難。周囲から見えている困難。そして、その人が置かれている環境。その三つが重なったところに、初めて見えてくるものがあるのかもしれません。
そして、ここで私は以前の同僚のことを、もう一度思い出します。一緒に働いていたころ、私は彼を「あまり仕事が得意ではない人」と見ていました。それは、少なくとも同じ職場という環境から見た彼でした。けれど彼は慶應義塾大学を卒業していました。もちろん、大学名だけでその人の能力を判断することはできません。
それでも、一つの疑問が残ります。学校で求められる力と、会社で求められる力は、本当に同じなのでしょうか? 試験では発揮できた力が、職場ではうまく発揮できない。反対に、学校の成績には表れなかった力が、社会に出て初めて生きる。
そんなことがあるのだとしたら――。「この人はできる」「この人はできない」と私たちが何気なく使っている物差しそのものも、ずいぶん怪しくなってきます。人間の能力って、本当に一本の物差しで測れるのでしょうか?
どうやら次に疑わなければならないのは、「障害」の物差しだけではなさそうです。私たちがずっと当たり前のように使ってきた、「できる人」「できない人」という物差し。次は、そちらを少し眺めてみることにしましょう。
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能力って、本当に一本の物差しで測れるの?
学校には、テストがあります。会社には、人事評価があります。そして医療には、診断基準があります。目的はそれぞれ違いますが、どれも目に見えにくい人間の一面を、何らかの「物差し」を使って捉えようとしているところは似ています。
では、その物差しは、どこまでその人を表しているのでしょう。以前の職場で一緒だった同僚は、慶應義塾大学を卒業していました。それだけで彼の能力を判断することはできませんが、少なくとも一つ分かることがあります。大学に入るために求められた能力と、私が一緒に働いていた職場で求められた能力は、同じではなかった。
試験問題を解く。文章を読み取る。知識を覚える。そうした力と、複数の仕事の優先順位を決める。締め切りを管理する。忘れずに報告する。周囲とタイミングを合わせる。予想外の出来事に対応する。そうした力は、すべて同じ「頭の良さ」ではありません。
ところが私たちは、ときどきそれらをまとめて、「あの人は仕事ができる」あるいは、「仕事ができない」と言ってしまいます。考えてみれば、ずいぶん大ざっぱな言葉です。しかも、その「仕事ができる」を判断するのも、多くの場合は人間です。
会社には会社なりの評価基準があります。売り上げや処理件数のように数字で表しやすいものもあれば、協調性やリーダーシップ、主体性のように、どうしても評価する側の判断が入るものもあります。昔の職場を思い出すと、「上司に気に入られている人は得だよな」なんて話も、よく聞いたものです。もちろん、本当にそれで給料や昇進が決まっていたのかは分かりません(笑)
でも、人が人を評価する以上、「自分の指示を素直に聞いてくれる部下はかわいい」くらいの感情が生まれることまで否定するのは難しいでしょう。だって人間だもの(笑)
だから企業も、目標や評価項目を決めたり、複数の人から評価したりして、なるべく一人の主観だけに左右されない仕組みを作ろうとしてきました。けれど、ここでもADHDの診断基準について考えたときと似た疑問が浮かびます。
物差しを作ることと、その人の能力を完全に測れることは、同じではありません。たとえば、子どものころから驚くほど絵の上手な人がいます。音を聞き分けることに秀でた人もいます。数学が飛び抜けて得意な人もいれば、人の表情のわずかな変化によく気づく人もいる。
反対に、あることは得意なのに、別のことになると驚くほど苦手という人もいます。人間の能力は、一本の棒の長さというより、いくつもの山と谷が並んだ地形のようなものなのかもしれません。
その地形の一部分だけを学校の試験で測れば、「成績」になる。職場という物差しを当てれば、「仕事ができる・できない」という評価になる。そして医療の物差しを当てれば、ある特徴について「診断」という形で捉えることができる。どれも、その場面では意味のある物差しです。
でも、どれ一つとして、その人そのものではありません。そう考えると、「慶應を出ているのに、どうして仕事ができないんだ?」という問いのほうが、もしかすると変だったのかもしれません。大学入試で測ったものと、職場で求めていたものが違うのなら、そこに矛盾はありません。
そして同じことは、ADHDについても言えそうです。ある環境では、その人の不注意や衝動性が大きな困難になる。別の環境では、同じ人がそれほど困らずに暮らせるかもしれない。だからといって、ADHDによる困難を「個性だから気にしなくていい」と片づけることもできません。困っている人にとって、その困難は現実だからです。
でも反対に、ある物差しで測った結果だけを見て、「この人は、こういう人間だ」と決めてしまうこともできない。ここまで考えて、ようやく番組タイトルの問いがこちらを向いてきます。
ADHDの特性は、「障害」なのでしょうか?
それとも、人間がもともと持っている「多様性」なのでしょうか?
もしかすると、この二つからどちらか一方を選ぼうとしていること自体が、少し違うのかもしれません。同じ一人の人間の中にある同じ特徴が、ある場所では「困難」になり、別の場所では、ただの「違い」になる。
だとしたら――。「障害」と「多様性」は、本当に反対側にある言葉なのでしょうか? 次はいよいよ、この番組が投げかけた問いそのものに戻ってみたいと思います。
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「障害」と「多様性」は、本当に反対語なの?
ここまで考えてきて、ようやく番組タイトルの問いに戻ってきました。ADHDの特性は、「障害」なのでしょうか、それとも「多様性」なのでしょうか? たぶん、この問いに○か×かで答えることはできません。
日常生活を送ることが難しくなり、本人が苦しんでいるのなら、その困難を「個性だから」と言い換えるだけでは何も解決しないでしょう。必要なところには、支援が必要です。けれど、その人が持っている特徴のすべてを「障害だから直すもの」と考える必要もありません。
得意なことがある。好きなことがある。自分なりのやり方がある。それを生かすことで、苦手な部分を補える人もいるでしょう。自分一人では補えなくても、別の誰かが補えることもある。道具や仕組み、働き方や環境を変えることで、昨日まで「できないこと」だったものが、それほど問題ではなくなることもあります。
そう考えると、「障害」と「多様性」は、一本の線を挟んで向かい合っている言葉ではないのかもしれません。
同じ一人の人間の中に、両方がある。ある場面では、その特徴によって困っている。そこには支援が必要になる。別の場面では、その特徴はただの「その人らしさ」かもしれない。さらに別の場所では、それが強みになることだってあるかもしれない。だから大切なのは、凹をすべて埋めて、誰もが同じ形になることではないのでしょう。
凹があっても暮らせるようにする、そして、凸まで削ってしまわない。
それが「多様性」という言葉の意味なのかもしれません。以前、一緒に働いていた同僚から、「実は俺、発達障害だって診断されてたんだ」と聞いたとき、私は初めて、「本人には本人にしか分からない“やりにくさ”があったのかもしれない」と思いました。
でも今考えると、もう一つ分からないことがあります。私は、彼の何を見て「仕事ができない」と判断していたのでしょう。職場で見えていた彼。大学で学んでいた彼。家庭にいる彼。一人で好きなことをしている彼。その全部を、私は知りません。
診断を聞く前も、聞いたあとも、彼は同じ人でした。変わったのは彼ではなく、彼を見る私の物差しが、一つ増えたこと。だったのかもしれません。
ADHDには診断基準があります。必要な支援につなげるためにも、その基準には意味があります。けれど、その線が人間そのものを二種類に分けているわけではない。「障害」と「多様性」。そのどちらか一方を選ぶのではなく、同じ一人の人間を違う角度から見たとき、両方がそこにあることもあるのでしょう。
だから最後に残ったのは、ADHDについての疑問というより、私たち自身についての疑問でした。
「普通」って、誰が決めたのでしょう?
そしてもう一つ。
私たちは、何を根拠に自分を「普通」だと思っているのでしょう?
もしかすると、その答えを探し続けることこそが、「多様性」という言葉を本当に理解することなのかもしれません。
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