子どもを産んだら、親が育てる。私たちは、それを当たり前のことだと思っています。けれども、自然界に目を向けると、子育ての形は驚くほどさまざまです。
卵を守り続ける魚がいる一方で、産卵を終えると、その後の世話をしない魚もいます。鳥類でもカッコウのように他の鳥の巣に自分の卵を混ぜて育ててもらおうという”托卵”をするものもいれば、哺乳類の中にも、母親が中心となって子を育てる動物や父親や群れの仲間が子育てに参加する種もいます。
では、人間はどうなのでしょうか? 子どもを守りたい、世話をしたいという気持ちは、いったいどこから生まれてくるのでしょう。近年の研究では、子育てに関わる脳の仕組みが少しずつ明らかになり、養育への関わり方によって脳の働きが変化することもわかってきました。
その一方で、自然界の子育ては、決して愛情だけで成り立っているわけではありません。限られた食べ物や時間、親自身の生存をめぐって、子育てを続けることが難しくなる場合もあります。そして、人間にはもう一つ、興味深い特徴があります。それは、親だけでなく、周囲の人々も子育てに関わってきたということ。
ところが現代の日本では、子育ての負担が一つの家庭、とりわけ母親に集中することも少なくありません。かつては当たり前だった「父親は仕事、母親は家事と育児」という役割分担。戦後の核家族化、そして共働き世帯が広がった現在まで、家族の形は大きく変わってきました。
それでも、子育てを親の責任として抱え込んでしまう考え方は、どこかに残っているのかもしれません。NHK『ヒューマニエンス』「“親と子”、 “ギリギリ”の子育て戦略」を手がかりに、動物たちの子育て、脳に備わった養育の仕組み、そして人間が築いてきた家族と社会のあり方を見つめ直してみたいと思います。
子育ては、本当に親だけでするものなのでしょうか?
【放送日:2026年10月20日(火)0:00 -0:59・NHK-Eテレ】
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親は、なぜ子どもを育てたいと思うの?
生まれたばかりの赤ちゃんを、そっと抱き上げる。信じられないほど小さな手が動き、泣き声が聞こえると、思わず顔を近づけてしまう。お腹がすいているのだろうか。眠いのだろうか。それとも、どこか具合が悪いのだろうか。
赤ちゃんは、まだ言葉で何も伝えられません。それでも、私たちはその小さな変化から何かを読み取り、世話をしようとします。親は、なぜ子どもを育てたいと思うのでしょうか。その答えを探すために、まずは哺乳類の脳を見てみましょう。
子育てを支える、脳の小さな領域
哺乳類の子育てを研究するうえで、重要な役割を果たしていると考えられているのが、脳の視床下部にある「内側視索前野(MPOA)」という領域です。
マウスなどを用いた研究では、この領域にある特定の神経細胞が、子どもを巣に運んだり、体をなめて世話をしたりする養育行動に関わっていることが明らかになってきました。たとえば、巣から離れた子どもを見つけると、親は口にくわえて巣へ連れ戻します。私たちには、ごく自然な親の行動に見えるかもしれません。
けれども、その背後では、子どもの存在を感知し、近づき、世話をするための神経回路が働いているのです。子育ては、ただ「かわいい」と感じるだけでは成り立ちません。子どもの声に気づくこと。危険から守ること。食べ物を与え、体を清潔に保つこと。そうした一連の行動を支える仕組みが、脳の中にあるのです。
「母親だから」育てたいと思うの?
ここで興味深いのは、養育に関わる神経の仕組みが、母親だけのものではないということです。もちろん、妊娠や出産に伴うホルモンの変化は、母親の養育行動に大きく関わります。けれども、哺乳類の中には父親が積極的に子育てをする種もいますし、子どもとの接触や養育経験によって、育児への反応が変わることも知られています。
人間でも、父親が子どもの世話に関わることで、養育に関連する脳の活動やホルモンの働きに変化が見られるという研究があります。
以前、『フロンティア』の「父性」をテーマにした記事でも考えたように、父親になることは、単に戸籍上の立場が変わることではありません。赤ちゃんを抱き、泣き声を聞き、毎日の世話を重ねる。そうした経験そのものが、養育者としての反応を育てていく可能性があるのです。
つまり、「子育てができるから世話をする」だけでなく、「世話をすることで子育てに関わる力が育つ」という側面もあるのでしょう。
子育てへの気持ちは、誰にでも同じように生まれるの?
ただし、ここで誤解してはいけないことがあります。脳に養育行動を支える仕組みがあるからといって、すべての人が自然に子どもを好きになったり、育児をしたいと感じたりするわけではありません。子どもへの反応には個人差があり、これまでの経験や心身の状態、周囲の環境なども影響します。
また、子どもを愛おしく思うことと、日々の育児を負担なく続けられることも、同じではありません。眠れない夜が続く。子どもが泣きやまない。誰にも相談できない。そんな状況では、子どもを大切に思っていても、心身の余裕を失うことはあります。
子育てを支える脳の仕組みは、私たちをいつでも理想的な親にしてくれる魔法ではないのです。それでも、哺乳類が長い進化の過程で、子どもを守り育てるための神経の仕組みを発達させてきたことには、大きな意味があります。
とりわけ哺乳類の子どもは、母乳を必要とし、生まれてからもしばらく親の世話に頼る種が少なくありません。子どもを育てる行動は、次の世代へ命をつなぐうえで重要な役割を果たしてきたのです。けれども、ここで新たな疑問が生まれます。
子どもを育てようとする仕組みが脳にあるのなら、なぜ自然界では、親が子育てをやめてしまうことがあるのでしょうか? そこには、愛情だけでは説明できない、生き物たちの厳しい現実が隠されているようです。
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親なのに、なぜ子育てをやめることがあるの?
親には、子どもを守り育てるための脳の仕組みが備わっている。それなのに、親が子育てをやめてしまうのは、なぜなのでしょうか。自然界に目を向けると、そこには私たちが思い描く「親の愛情」だけでは説明できない現実があります。
生まれた子どもを育てる動物がいる一方で、子育てを途中でやめたり、子どもを置き去りにしたりする動物もいるのです。それは単に、親としての能力が欠けているからなのでしょうか。
子育てには、大きな代償がある
子どもを育てるには、食べ物も時間も体力も必要です。哺乳類の場合、妊娠や授乳には多くのエネルギーが費やされます。親自身が十分な栄養を得られなければ、子どもを育て続けることが難しくなる場合もあります。また、子どもを守ろうとして、親自身が捕食者に襲われる危険もあるでしょう。
生き物にとって、繁殖は次の世代へ命をつなぐための重要な営みです。けれども、今いる子どもを育てることにすべての力を使ってしまえば、親自身が生き延びられなくなったり、将来の繁殖の機会を失ったりすることもあります。
進化生物学では、こうした現在の繁殖への投資と、親自身の生存や将来の繁殖との間に生じる関係を「親の投資」という考え方から捉えます。つまり、子育ては無条件に続けられる行動ではなく、限られた資源の中で成り立っているのです。
卵一個の「価値」は、みんな同じなの?
魚の世界を見ると、子育ての方法が種によって大きく異なることに気づきます。たとえば、スズメダイの仲間には、オスが卵を守る種がいます。岩などに産みつけられた卵を、オスが外敵から守り、ひれで水を送って世話をするのです。
一方、ベラの仲間には、メスとオスが水中に卵と精子を放出し、その後は卵を保護しない種も多くいます。同じ魚なのに、なぜこれほど違うのでしょうか? その違いを考える一つの手がかりが、卵の数や大きさ、そして一個の卵に費やすエネルギーです。
少数の比較的大きな卵に資源を投じる種もいれば、多数の小さな卵を産む種もいます。ただし、卵が大きければ必ず親が守り、小さければ放置するという単純な法則があるわけではありません。卵の産みつけ方、捕食者の存在、保護に必要な労力なども、子育ての方法を左右します。
大切なのは、親がどのように子どもを守るかは、その生き物が置かれた環境や繁殖の仕組みと深く関わっているということです。私たちが「親なら子どもを守るはずだ」と考える行動も、自然界では決して一つの形に決まっていないのです。
育児放棄は、生き残るための戦略なの?
自然界では、食べ物が極端に不足したときや、子どもを育てる条件が悪化したときに、親が養育を中断する例があります。こうした行動を、進化生物学では生存や繁殖の観点から研究することがあります。
しかし、「戦略」という言葉には注意が必要です。動物が将来の利益を計算し、意識的に子どもを見捨てる決断をしているとは限りません。進化生物学でいう戦略とは、長い進化の過程で形成されてきた行動の傾向を説明するための言葉でもあるのです。
そして、この考え方を、そのまま人間の育児放棄に当てはめることはできません。人間社会でいう「ネグレクト」とは、子どもの健康や安全、発達に必要な養育が十分に行われない状態を指し、児童虐待の一類型とされています。
その背景には、養育者の心身の不調、経済的な困難、孤立、家族関係など、さまざまな要因が複雑に関わることがあります。もちろん、こうした事情があるからといって、子どもが危険な状態に置かれてよいわけではありません。子どもの安全を守ることと、養育者が抱える困難を理解して支援することは、どちらも欠かせないのです。
「育てたい」と「育てられる」は、同じではない
ここで、最初の疑問に戻ってみましょう。親には、子どもを守り育てるための脳の仕組みが備わっています。それでも、子育てを続けることが難しくなる場合がある。この二つは、必ずしも矛盾していません。
子どもを大切に思う気持ちがあっても、十分な睡眠が取れず、生活に困り、誰にも助けを求められない状況では、養育の質が損なわれることがあります。反対に、周囲の支えによって負担が軽くなれば、子どもと向き合う余裕を取り戻せることもあるでしょう。
もちろん、人間のネグレクトをすべて養育者の疲労や孤立だけで説明することはできません。それでも、子育てを個人の愛情や努力だけに委ねることには、限界があるのではないでしょうか? 子どもを育てようとする脳の仕組みがあることと、子どもを育て続けられる環境があることは、別の問題なのです。
では、私たち人間は、その環境をどのようにつくってきたのでしょうか。そして、子育てを支えるはずの社会が、いつの間にか母親一人に大きな負担を背負わせるようになったのだとしたら、その理由はどこにあるのでしょう。次は、自然界から少し離れて、人間の家族の歴史をたどってみたいと思います。
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子育ては、いつから「母親の仕事」になったの?
「お父さんは会社へ行き、お母さんは家で子どもを育てる」。昭和の日本では、そんな家庭の姿が、ごく当たり前のように語られていた時代がありました。朝、父親が仕事に出かけ、母親が家事をこなしながら子どもを送り出す。夕方になれば、母親が夕食を用意し、父親の帰宅を待つ。
もちろん、すべての家庭がそうだったわけではありません。農業や商業など、夫婦がともに働く家庭も数多くありました。それでも、高度経済成長期の日本では、会社員の夫と専業主婦の妻、そして子どもたちという家族像が、一つの理想として広まっていきました。
ところが、ほんの数十年の間に、その暮らしは大きく変わりました。今では共働き世帯が広がり、父親も育児に参加することが求められています。では、私たちはいつから、子育てを「母親の仕事」だと考えるようになったのでしょうか?
かつての子育ては、母親だけの仕事だったの?
日本では、長い間、家族のあり方に「家」という考え方が深く関わってきました。とりわけ明治時代の民法で制度化された家制度のもとでは、家長を中心とする家族秩序や、家の継承が重視されました。結婚も、本人同士の気持ちだけでなく、家同士の関係や生活の維持と結びついていたのです。
しかし、だからといって、昔の子育てが母親だけに任されていたわけではありません。祖父母や親戚、きょうだい、近隣の人々が、子どもの世話に関わることもありました。農家や商家では、女性も家業の重要な働き手でした。母親が仕事をしている間、祖父母や年長の子どもが幼い子の面倒を見ることもあったでしょう。
また、乳母のように、実の母親以外の女性が授乳や養育を担う例もありました。ただし、乳母を雇えるかどうかは時代や身分、経済状況によって大きく異なります。つまり、昔の日本にも、親以外の人が子育てに関わる仕組みは存在していたのです。もっとも、それを現代の理想的な共同養育と考えることもできません。
家族や地域の助け合いには、同時に厳しい上下関係や性別による役割分担もあったからです。子育てを多くの人で担っていたことと、その負担が公平だったことは、同じではありません。
戦後の団地は、家族をどう変えたの?
戦後、日本の家族の姿を大きく変えたものの一つが、高度経済成長期の都市化でした。地方から都市へ、多くの若者が仕事を求めて移動しました。そして、都市で働く人々の住まいとして広がっていったのが、団地です。1955年に設立された日本住宅公団などによって、新しい集合住宅が次々と供給されました。
そこには、夫婦と子どもを中心とした暮らしに適した間取りが用意され、台所や浴室などを備えた近代的な住生活への憧れも重なっていました。親や祖父母と同居せず、夫婦と子どもだけで暮らす。そんな核家族の生活が、都市部で身近なものになっていったのです。
ただし、核家族そのものは戦後に生まれたわけではありません。団地が一方的に核家族化を引き起こしたというより、都市への人口移動や雇用の変化、政府の住宅政策が重なり、核家族で暮らす人々を増やしていったと考えるほうが自然でしょう。
また、団地には同世代の子育て家庭が集まり、近所同士の助け合いが生まれるという側面もありました。一方で、故郷の親族から遠く離れた家庭では、祖父母などに日常的な育児を頼むことが難しくなった場合もあったはずです。
家族が小さくなることと、子育てを支える人間関係が小さくなることは、必ずしも同じではありません。けれども、周囲とのつながりが薄れたとき、核家族の中で育児の負担を引き受けるのは誰だったのでしょうか。
「父親は仕事、母親は家庭」は、いつから常識になったの?
高度経済成長期には、企業に勤めるサラリーマン男性が家計を支え、妻が家事や育児を担うという家族像が広く支持されるようになりました。長時間働く夫を、家庭を守る妻が支える。そんな役割分担は、当時の雇用慣行や社会制度とも結びついていました。
けれども、この暮らし方は、人類が昔から続けてきた普遍的な家族の姿ではありません。農村や自営業の家庭では、女性も働きながら家事や育児を担っていましたし、都市部でも経済的な事情や考え方から共働きを続ける家庭はありました。専業主婦という暮らし方が、すべての女性にとって現実的な選択肢だったわけではないのです。
また、戦後の日本では、憲法や民法の改正によって、婚姻における男女の平等や夫婦の対等な関係が制度上の原則となりました。それでも、法律が変われば、すぐに家庭内の役割分担まで変わるわけではありません。「男は外で働き、女は家庭を守る」そんな価値観は、昭和から平成の生活の中に長く残りました。
そして、その役割分担が当たり前になるほど、家事や育児に費やされる膨大な時間と労力は、見えにくくなっていったのかもしれません。食事をつくること。洗濯をすること。子どもの体調を気にかけること。それらは、家族が暮らしていくために欠かせない仕事です。
にもかかわらず、家庭の中で行われる家事や育児は、賃金が支払われないことから、その経済的な価値が十分に認識されにくいという問題を抱えてきました。本来「家族のためにすること」と「労働であること」は、本来、矛盾しないはずなのです。
共働きが増えたのに、子育ての負担は減ったの?
そして、時代は平成から令和へ。女性の就業が広がり、共働き世帯が増えました。その背景には、女性の社会進出や働き方の変化だけでなく、家計を支えるために夫婦双方の収入が必要になる事情もあります。かつてのように、夫の収入だけで家族の生活を支えることが難しい家庭が増えたという事情もあるでしょう。
しかし、夫婦がともに働くようになったからといって、家事や育児の負担が自動的に半分ずつになるわけではありません。仕事を終えて帰宅しても、夕食の準備や子どもの世話が待っている。子どもが熱を出せば、誰が仕事を休むのかを考えなければならない。
保育園の送迎、学校からのお知らせ、予防接種の予定。こうした日々の段取りまで含めると、子育てには目に見えにくい仕事が数多くあります。父親の育児参加が広がってきた一方で、日本では今も、家事や育児に費やす時間に男女差があることが各種調査から示されています。昭和の時代に形づくられた役割分担の意識が、社会や働き方の変化に追いついていない部分もあるのかもしれません。
さらに、現代には現代ならではの難しさがあります。インターネットやSNSを開けば、子育てに関する情報が次々と目に入ります。役立つ知識や同じ悩みを持つ人とのつながりを得られる一方で、他人の家庭と自分の家庭を比較したり、「理想の親」であることを求められているように感じたりすることもあるでしょう。
かつては近所や親戚に相談していたことを、今では画面の向こうのAIなどに尋ねることもできます。けれども、情報が増えることと、実際に子どもを抱いてくれる人が増えることは、同じではありません。
子育ては、誰の責任なの?
昭和から令和へ。家族の形も、働き方も、社会の常識も、大きく変わりました。それでも、子育てを家庭の中だけで解決しようとする考え方は、今もどこかに残っているのではないでしょうか?
もちろん、親が子どもを守り育てる責任は大切です。けれども、その責任を果たすために、親自身が誰かの助けを必要とすることもあります。
親族に頼ること。保育の専門家に子どもを預けること。地域や行政の支援を受けること。それらは、親としての責任を放棄することではありません。むしろ、子どもを安全に育てるための大切な選択肢なのです。
ここで、最初の章で見てきた脳の仕組みを思い出してみましょう。子どもを育てようとする働きは、人間の脳に備わっています。しかし、その働きは、本当に母親だけのものなのでしょうか?
父親や、血のつながらない養育者にも、子育てに関わることで変化する脳の仕組みがあるのだとしたら…。私たちが長い間「母親の仕事」だと思ってきたものは、生物学的な必然というより、社会がつくり上げてきた役割分担の一面もあるのかもしれません。
次は、子育てを経験することで変わっていく、人間の脳に目を向けてみたいと思います。
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親になる脳は、育児をすることで育つの?
赤ちゃんが泣き出したとき、真っ先に気づくのは誰でしょうか。母親でしょうか。それとも父親でしょうか。「母親なら、泣き声を聞いただけで赤ちゃんが何を求めているかわかる」そんな言葉を聞いたことがあるかもしれません。
けれども、初めて子どもを育てる母親が、最初から泣き声の意味をすべて理解できるわけではありません。お腹がすいているのか、眠いのか、抱っこしてほしいのか。何度も抱き上げ、様子を確かめ、試行錯誤を繰り返すうちに、少しずつわかるようになっていくのでしょう。
では、その経験を父親が重ねたら、どうなるのでしょうか? 親としての能力は、生まれつき決まっているものなのでしょうか。それとも、子育てをすることで育っていくものなのでしょうか。
「母性」と「父性」は、生まれつき違うの?
哺乳類の母親には、妊娠や出産、授乳に伴う大きな身体的変化があります。オキシトシンやプロラクチンなどのホルモンも、出産や授乳、養育行動に関わっています。こうした生物学的な仕組みは、母親の子育てを理解するうえで欠かせません。しかし、それだけで「母親には育児能力があり、父親にはない」と結論づけることはできません。
そもそも、子どもを抱き、泣き声に反応し、危険から守るという行動は、授乳とは別の働きです。そして、そうした養育行動に関わる脳の仕組みは、女性だけに存在するわけではありません。
以前、『フロンティア』の「父性」をテーマにした記事でも、父親が育児に関わることで、脳やホルモンの働きに変化が見られるという研究に触れました。
男性にも、子どもを守りたい、世話をしたいという気持ちが生まれることがあります。その気持ちを、単に母親の手伝いをするためのものと考える必要はないのでしょう。父親もまた、子どもを育てる当事者なのです。
赤ちゃんを抱く経験が、脳を変える?
人間の脳には、経験によって働き方や神経のつながりが変化する「可塑性(かそせい)」という性質があります。これは、子育てに関わる脳の働きについても重要な視点です。
赤ちゃんの表情を見つめる。泣き声を聞く。抱き上げてあやす。そうした経験を繰り返すことで、子どもの状態に注意を向けたり、反応を読み取ったりする働きが変化する可能性があります。
実際に、人間の養育者を対象とした研究では、育児経験と、情動や注意、社会的な認知などに関わる脳の活動との関連が報告されています。父親を対象とした研究でも、育児への関わり方と脳の反応との間に関連が見られることがあります。
ただし、ここで注意したいことがあります。脳の活動に違いが見られたからといって、育児経験だけがその原因だと断定できるわけではありません。もともとの個人差や年齢、生活環境、睡眠、ストレスなども関わる可能性があるからです。
それでも、こうした研究は、養育者としての反応が生まれつき固定されているわけではないことを考える手がかりになります。子どもを育てることで、親自身もまた変わっていく。それは、子育てを経験した人なら、どこか思い当たることがあるのではないでしょうか。
「おっぱい」がなくても、父親は親になれる?
生まれたばかりの赤ちゃんを育てるとき、母親と父親には、どうしても同じようにはできないことがあります。その代表が、授乳です。赤ちゃんが泣きやまないとき、母乳を飲むことで落ち着く場合があります。
父親がどれほど一生懸命に抱っこしても、ミルクを作って与えようとしてもうまく泣きやませられず、途方に暮れることもあるでしょう。また近年ではベッドに静かに寝かせておくだけではなく、”おくるみ”に包んで軽く抱きしめるのが有効というような話も聞きます。
けれども、授乳ができることと、養育者として子どもを安心させられることは、同じではありません。父親にも、ミルクを飲ませること、抱っこすること、寝かしつけること、おむつを替えることなど、さまざまな形で育児に関わる機会があります。
もちろん、母乳で育てるか、ミルクを使うかによって、親子の愛情の深さが決まるわけでもありません。大切なのは、子どもの必要に気づき、繰り返し応えていくことなのでしょう。その積み重ねの中で、父親も赤ちゃんの小さな変化を読み取れるようになっていくことがあります。
そして、母親もまた、最初から何もかもできるわけではありません。「母親だからできる」「父親だからできない」と決めつけてしまうと、育児を通じて身につく力まで、見落としてしまうのかもしれません。
親になれるのは、子どもを産んだ人だけなの?
ここまで考えてくると、もう一つの疑問が生まれます。子どもを育てるための脳の働きは、実の親だけに備わっているのでしょうか? 人間の子育てには、祖父母や親戚、養親、保育者など、さまざまな人が関わります。その中には、自分で子どもを産んだ経験のない人もいます。
それでも、子どもの表情や泣き声に気づき、必要な世話をし、安心できる関係を築いていくことはできます。養育に関わる脳の仕組みは、妊娠や出産だけでなく、子どもとの関わりや経験によっても影響を受けると考えられています。
ただし、すべての養育者の脳が同じように変化するわけではなく、その仕組みにはまだ研究途上の部分もあります。それでも、この視点は、私たちが当たり前だと思ってきた「親」の姿を少し広げてくれるのではないでしょうか。
親とは、血のつながりだけで決まる存在なのでしょうか。子どもを産んだ人だけが、子どもを育てる力を持つのでしょうか。あるいは、子どもと向き合い、世話を重ねることで、人は養育者として育っていくのでしょうか。ここで、前の章で考えた日本の家族の歴史が、もう一度意味を持ってきます。
「父親は会社、母親は家庭」という役割分担は、ある時代の社会や働き方の中で広まった家族像でした。しかし、養育に関わる脳の働きが性別や血縁だけで決まらないのだとしたら、子育ての担い手も、最初から母親一人に限定する必要はないはずです。
子育てをすることで、養育者としての力が育っていく。その可能性を持つ人が、親のほかにもいるのだとしたら…。人間が長い歴史の中で続けてきた「共同養育」は、単に人手が足りないから生まれた仕組みではないのかもしれません。
次は、人間がなぜ多くの人の手を借りて子どもを育ててきたのか、その進化の歴史を見つめてみたいと思います。
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人間は、なぜみんなで子どもを育てるの?
電車の中で、赤ちゃんが泣き出しました。お母さんが抱っこしても、お父さんがおもちゃを見せても、なかなか泣きやみません。周囲の視線も気になって、親は少し困った顔をしています。そんなとき、向かいの席に座っていた人が、赤ちゃんに向かってそっと微笑みました。
小さく手を振ると、赤ちゃんは不思議そうにその顔を見つめます。そして、さっきまで泣いていたのが嘘のように、ふっと静かになることがあります。もちろん、いつもそうなるわけではありません。けれども、赤ちゃんが親以外の人の表情や声に反応する姿は、私たちに一つの疑問を投げかけます。人間の子どもは、最初から親だけを頼りにしているのでしょうか?
人間の赤ちゃんは、なぜこんなに手がかかるの?
多くの哺乳類の子どもは、生まれてから親の世話を必要とします。けれども、人間の子どもは、とりわけ長い時間をかけて成長します。生まれてすぐに歩くことはできず、自分で食べ物を手に入れることもできません。言葉を覚え、道具を使い、社会の中で生きていくためには、長い年月が必要です。
その間、子どもを育てる大人には、食べ物を用意し、安全を守り、さまざまなことを教える役割があります。しかも、人間の母親は、一人の子どもが完全に自立する前に、次の子どもを産むこともあります。幼い子どもを何人も育てながら、食べ物を確保し、自分自身も生きていく。それを母親一人だけで担うのは、容易なことではなかったでしょう。
そこで、人類の進化を考えるうえで注目されているのが、「共同養育」という考え方です。母親だけでなく、父親や祖父母、きょうだい、親戚、そして血のつながらない人々も、子どもの世話に関わる。そうした協力が、人間の長い子育てを支えてきた可能性があるのです。
共同養育をするのは、人間だけなの?
実は、親以外の個体が子育てを手伝う動物は、人間だけではありません。たとえば、マーモセットやタマリンなどの霊長類では、父親や群れの仲間が子どもを運んだり、食べ物を分け与えたりすることが知られています。ミーアキャットの群れでも、親以外の個体が子どもの世話や見張り、餌の提供などに関わります。
こうした行動は、動物行動学で「協同繁殖」や「ヘルパーによる養育」といった枠組みから研究されています。ただし、動物の協同繁殖と人間の共同養育が、すべて同じ仕組みで成り立っているわけではありません。種によって、誰が世話をするのか、どのような利益があるのか、その関係は異なります。
人間の場合には、血縁者だけでなく、友人や地域の人々、専門的な保育者なども子育てに参加できます。また、子どもを育てるための知識や経験を、言葉や文化を通じて伝えることもできます。人間の共同養育の特徴は、単に世話をする人数が多いことだけではなく、その関係を社会の中で広げていけることにもあるのでしょう。
見知らぬ人の笑顔で、なぜ赤ちゃんは泣きやむの?
ここで、最初の電車の中の光景に戻ってみましょう。赤ちゃんが泣いているとき、知らない人が微笑みかけたり、手を振ったりすると、時として泣きやむことがあります。これは、なぜなのでしょうか?
赤ちゃんは成長とともに、人の顔や声、表情、視線などに反応するようになります。誰かが自分を見つめ、笑いかけ、声をかけてくれる。そんな働きかけが、赤ちゃんの注意を引きつけることがあります。泣いていた理由から一時的に注意がそれたり、穏やかな声や表情に安心したりする場合もあるでしょう。
一方で、人見知りが強くなる時期には、知らない人の接近を嫌がることもあります。つまり、見知らぬ人が赤ちゃんを泣きやませることがあるからといって、それだけで人間の共同養育の進化が証明されるわけではありません。それでも、親以外の人の働きかけが、赤ちゃんの気持ちや行動に影響することは興味深い事実です。
そして、その小さなやり取りは、赤ちゃんだけでなく、困っていた親の気持ちまで軽くしてくれることがあります。「泣いていても大丈夫ですよ」。言葉にしなくても、そんな気持ちが伝わることがあるのかもしれません。
乳母から保育士へ、子育てを支える人々
人間は、長い歴史の中で、親以外の人の力を借りながら子どもを育ててきました。日本でも、祖父母や親戚、地域の人々が育児に関わってきました。また、時代や階層によっては、乳母が授乳や養育を担うこともありました。
もちろん、乳母という仕組みには、身分や経済力による格差もあり、現代の保育制度と同じものではありません。それでも、子どもを育てる役割が、必ずしも実の母親一人に限られていなかったことを示しています。
現代では、保育士や幼稚園教諭、認定こども園の職員など、多くの専門家が子どもの成長を支えています。子どもの小さな変化に気づき、安心できる環境を整え、遊びや学びを支える。その仕事は、単に親が働いている間、子どもを預かることだけではありません。子ども自身の成長と発達を支える、重要な営みなのです。
そして、前の章で見てきたように、養育に関わる脳の働きは、性別や血縁だけで決まるものではありません。子どもと向き合い、世話を重ねる経験は、親以外の養育者にとっても意味を持つと考えられます。親だけが子育てをするのではない。子どもに関わるさまざまな人々が、それぞれの立場から成長を支えているのです。
子育てを「手伝う」社会から、「ともに育てる」社会へ
それでは、現代の日本はどうでしょうか。共働き世帯が増え、家族の形も多様になりました。それでも、子育ての責任を家庭の中だけで抱え込んでしまうことがあります。保育園に預けることを申し訳なく感じたり、祖父母に頼ることをためらったり、周囲に助けを求めることが難しかったり…。
けれども、人間が長い進化の歴史の中で、他者と協力しながら子どもを育ててきたのだとしたら、誰かの力を借りることは、決して特別なことではないはずです。
もちろん、家族や地域の善意だけに頼ればよいわけではありません。保育に関わる人々の労働環境を整えることも、親が必要な支援を受けられる制度をつくることも、社会全体で考えなければならない課題です。そして、共同養育とは、親の責任をなくすことでもありません。親が責任を果たせるように、周囲の人々や社会が支えることなのです。
最初の章で、私たちは子育てを支える脳の仕組みについて考えました。子どもを守りたいと思う気持ちには、生物としての基盤があります。けれども、その気持ちだけで、長い子育てのすべてを乗り越えられるわけではありません。人間は、子どもを育てる力を持つと同時に、誰かの助けを必要とする存在でもあるのでしょう。
電車の中で泣いている赤ちゃんに、そっと微笑みかける人がいる。その小さな仕草だけで、すべての育児の問題が解決するわけではありません。それでも、親と子を見守る人が、そこにもう一人いる。子育てを支える社会は、そんな小さな関わりからも始まるのかもしれません。
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まとめ|子育ては、誰のために、誰がするものなのでしょうか?
子どもを抱き上げ、泣き声に耳を澄ませる。そんな何気ない行動の背後には、長い進化の歴史の中で育まれてきた、養育を支える脳の仕組みがありました。
けれども、子どもを育てたいと思うことと、育て続けられることは、必ずしも同じではありません。自然界の動物たちは、限られた食べ物や時間、親自身の生存という厳しい条件の中で、次の世代へ命をつないできました。
そして人間は、長い時間をかけて成長する子どもたちを、親だけでなく、周囲の人々とも協力しながら育ててきたと考えられています。一方、日本の家族の姿は、昭和から令和にかけて大きく変わりました。
「父親は会社、母親は家庭」という暮らしが一つの理想とされた時代から、夫婦がともに働き、ともに子育てを担うことが求められる時代へ。それでも、家事や育児の負担は、今なお特定の人に偏ることがあります。
社会の形が変わっても、子育てを家庭の中だけで抱え込もうとする考え方は、簡単には変わらないのかもしれません。けれども、脳科学が示しているのは、養育に関わる力が、性別や血縁だけで決まるものではないという可能性です。
子どもを抱き、世話をし、成長を見守る。そうした経験を通じて、養育者自身も変わっていくことがあります。それならば、子育てを支える人の輪を、もっと広げてもよいのではないでしょうか?
電車の中で泣き止まない赤ちゃん。困り果てた親のそばで、誰かがそっと微笑みかける。「子どもは泣くのが仕事だからね」そんな一言があれば、親は少しだけ安心できるかもしれません。
もちろん、見知らぬ人が赤ちゃんをあやすことだけで、子育ての困難が解決するわけではありません。安心して利用できる保育の仕組みも、働きながら育児を続けられる環境も、困ったときに助けを求められる制度も必要です。けれども、そうした社会をつくる出発点には、子育てを一つの家庭だけの問題にしないという考え方があるのでしょう。
親が誰かに助けを求めることは、弱さではありません。そして、子育てに関わるのは、必ずしも親だけである必要はないのです。子どもを育てるのは親の責任。でも、親を支えるのは、社会の責任でもある。その当たり前のことを、私たちはもう一度、思い出してもよいのかもしれません。
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