天に近い場所は、楽園ではない。空気は薄く、紫外線は強烈で、天候は一瞬で豹変する。そこでは、昨日まで生きていた理由が、今日は何の意味も持たなくなる。
プラネットアースⅡ 第五集「高山 天空の闘い」は、そんな“選ばれし者だけが立てる舞台”で、命がどう争い、どうつながれていくのかを描き出す。映像は壮麗だが、語られる現実は冷徹だ。高山は、生きものに問いを投げかける。
「ここで、生きられるか?」と。
【放送日:2026年2月4日(水)9:45 -10:30・NHK-BS】
高山という「舞台」は、なぜここまで過酷なのか?
高山環境の本質は、変化の激しさにある。酸素は平地よりもはるかに少なく、日中と夜の寒暖差は極端。晴れていた空は、数分で嵐に変わる。この環境では、体が強いだけでは足りない。判断が速いだけでも足りない。「その場に合った形に変われるか」が、生死を分ける。
プラネットアースⅡは、高山を単なる背景として扱わない。ここでは山そのものが、生きものを選別する“存在”として描かれる。登る者すべてを拒むわけではない。ただ、適応できない者を容赦なく振り落とす。それが、高山という世界だ。
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一瞬の失敗が死を呼ぶ──イヌワシの狩り
高山での狩りは、力比べではない。それは、精度の勝負だ。
イヌワシは、むやみに飛ばない。風向き、斜面の角度、獲物との距離。すべてが揃うまで、羽ばたきを抑え、待つ。その沈黙こそが、この鳥の強さだ。

一度の急降下に、今日の命運がかかっている。外せば、次の機会は保証されない。体力は有限で、獲物もまた賢い。高山では、「惜しかった」は敗北と同義だ。
番組が映し出すのは、狩りの瞬間そのものよりも、その前後に流れる緊張だ。飛び立つまでの静止、失敗した後の、何も起こらなかったかのような空。そこに、感情的な演出はない。ただ、事実が置かれる。
失敗は、そのまま生存率を削るという事実が…。
高山は、挑戦を称えない。努力も、勇気も、評価しない。ただ一つ、その環境に見合った精度に達していたかどうか。それだけが、次の一日を許される条件になる。
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闘いは誇りではない──ユキヒョウの繁殖競争
高山での闘いは、栄光のために行われない。生き延びるためですらない。ユキヒョウにとってそれは、「次の世代を残せるかどうか」を決める、期限付きの手続きだ。
ヒマラヤの稜線近く。限られた繁殖期に、オス同士は激しくぶつかり合う。牙を剥き、体をぶつけ、相手を退かせる。だがそこに、誇示の余裕はない。負ければ、来年があるとは限らない。勝っても、傷を負えば狩りに支障が出る。高山では、勝利すらリスクなのだ。

番組が冷静なのは、この闘いを「勇敢な行為」として描かないところだ。カメラは淡々と追う。闘いが終わった後の静けさ、息を整える時間の長さ、そして何事もなかったかのように続く山の時間を。ここでは、強さは称賛されない。必要だったから、そうなっただけ。高山は、理由を語らない。
ユキヒョウの闘いは教えてくれる。過酷な環境では、「挑戦すること」そのものが美徳にはならない。選ばれる行為だけが、結果として残る。それは冷たい真実だが、同時に、極めて公平な世界でもある。
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高山が教えてくれる「強さ」の正体とは?
高山で生き残るものは、必ずしも「最も強い」存在ではない。また、「最も努力した」存在でもない。生き残るのは、その環境が求める条件に、最も近い形で存在できたものだ。
薄い酸素に耐えられる肺。急激な寒暖差に適応する体温調節。一度の狩り、一度の闘いにすべてを賭けられる判断力。それらは意志の問題ではない。気合でも、根性でもない。ただ、そうなっていたかどうか——それだけだ。
イヌワシも、ユキヒョウも、「挑戦している」つもりはない。生きるために必要な行為を、必要なタイミングで行っているだけだ。だから高山では、挑戦そのものが称賛されることはない。結果だけが、静かに残る。
この世界にあるのは、成功者と敗者という物語ではなく、適応できたか、できなかったかという事実だけ。それは冷酷に見える。だが同時に、とても誠実だ。
人間社会のように、行為を意味づけたり、努力に物語を与えたりはしない。高山は、ただ問い続ける。——ここで、生きられるか。その問いの前では、誰も特別扱いされない。それこそが、高山が示す「強さ」の正体だ。
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人間はこの高度で、何を学べるのか?
高山の生きものたちは、何かを「学ぼう」として生きてはいない。生きるために必要な行為を、ただ、必要なだけ繰り返している。食べること。次の世代を残すこと。その二つが満たされなければ、どんな能力も、どんな知恵も意味を失う。
人間は少し違う。私たちは「学び」を制度にし、点数や資格や肩書きで測ろうとする。それ自体に意味はある。特に、守られている時間の中では…。
けれど大人になってもなお、試験に受かることだけに必死になり、生きる力そのものを問い直さない姿を見ると、どこかちぐはぐに映る。——あなたは、生きることの本質を理解していますか? 高山は、そう問いかけてくる。
ここでは、「知っているか」よりも、「できるか」がすべてだ。しかもその“できる”は、机の上では測れない。寒さに耐えられるか? 失敗が許されない場面で、判断できるか? 必要なときに、必要な行為を選べるか?
高山の生きものたちは、その答えを言葉では示さない。ただ、生き残るか、消えるかで示す。それは残酷で、同時にとても正直な世界だ。
この回が人間に突きつけるのは、新しい知識ではない。「あなたの学びは、生きることにつながっていますか?」という、静かな問いなのかもしれない。