こんにちは鳥巣です。11月4日のブラタモリでは敦賀が登場します。敦賀といえば、2023年度末には北陸新幹線が金沢から延伸開業することが決まっており、古い話では「岩壁の母」でしょうか?私の育った時代には既に昔話として語られるだけでしたが、第二次世界大戦後、旧ソ連に捕虜として抑留されていた旧日本兵が引き上げてくる港の桟橋で、息子の帰りを待ち続ける母親たちを総称し、マスコミや映画でも取り上げられて歌にもなったそうです。
そんな敦賀は最近、北陸新幹線の金沢ー敦賀間の延伸で話題になっていますが、実は奈良時代以前から日本の玄関口として発展してきました。そこで、知っているようであまりよくわからなかった敦賀や若狭について調べてみました。
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敦賀と北前船と旧街道の関係って?
敦賀といえば現在では日本海を北海道に向かうフェリーのターミナルくらいしか思い浮かびませんが、江戸時代中期から明治時代にかけては、いわゆる「北前船(きたまえぶね)」の寄港地でした。北前船は蝦夷地(現在の北海道)から日本海沿岸を通って、関門海峡から瀬戸内海に入り、大阪までを往復した海上輸送路です。
司馬遼太郎の小説「菜の花の沖」では、淡路島の一介の漁師から北前船の船頭になって活躍した高田屋嘉平(たかだやかへい)の生涯が描かれています。高田屋嘉平は、北前船で津軽海峡を渡って蝦夷地に向かえる安全な航路や風向きなどを研究して、箱館(現在の函館)を港として発展させたとも言われています。
北前船は春になると、京都や大阪の品物を蝦夷地(北海道)に運び、秋になると雪が降る前に日本海を南下して蝦夷地のニシンや昆布を大阪や京都に運んだ、と学校の教科書には書いてありました。
しかし当時の船には甲板がなく(幕府が鎖国政策を維持するために、遠洋に出られる性能を持った船を作ることを許可しなかったといいます)、一寸法師(いっすんぼうし)のお椀の船に帆を付けたようなものですから、沿岸の港みなとをつたって航海を続けるしかなかったわけです。
結果的にたくさんの港に寄港しながら行くわけですから、途中の港でも安い品物を買い込んで他の港で高く売るということを繰り返して商売をしていました。もちろん江戸時代から蝦夷地の昆布や、明治になるとニシンを加工した身欠鰊(みがきにしん)や、綿の生産に欠かせなかった肥料も大量に運んだといいます。
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越前と京を結んでいた主な街道と北陸道・北国街道
それらの品物は当然、敦賀の港でも取引されていたわけですが、敦賀(越前)から始まって、または通っていた街道について調べてみると、飛鳥・奈良、平安時代から戦国時代、江戸時代とそれぞれの時代で中央(朝廷や幕府?)が整備・管理(?)していたりしている、複雑怪奇な状況がわかってきました。たとえば、
日本列島を横切っている街道
1.若狭街道(鯖街道:京都ー大原ー朽木ー保坂ー小浜)
2.鞍馬街道(鯖街道:京都ー鞍馬ー久多ー針畑峠ー根木ー遠敷ー小浜)
3.西近江路(鯖街道:京都ー大津ー樫田ー勝野ー今津ー保坂ー熊川ー小浜)
4.塩津街道(京ー琵琶湖ー塩津ー敦賀)
日本海沿いの街道
5.北陸道(小浜ー越前(敦賀)ー加賀ー能登ー越中ー越後ー佐渡)
北陸道は、新潟の直江津から北国街道(ほっこくかいどう・北国脇往還)とぶつかって、直江津、善光寺(長野)、小諸(長野)と内陸に向かって中山道の追分宿(長野県北佐久郡軽井沢町追分)とぶつかり、最終的には中山道を通って江戸に達します。
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北前船の主な寄港地
ここで当時の北前船の主な寄港地を挙げてみます。
■北海道
石狩、小樽、松前、箱館(函館)
■青森県
野辺地、鯵ヶ沢、深浦
■秋田県
能代、男鹿、秋田、由利本荘、にかほ
■山形県
酒田、鶴岡
■新潟県
新潟、長岡(寺泊)、出雲崎、佐渡、上越
■富山県
富山、高岡
■石川県
輪島、志賀、金沢、白山、小松、加賀
■福井県
坂井、南越前、敦賀、小浜
■京都府
宮津
■兵庫県
新温泉
■鳥取県
鳥取
■島根県
浜田
■広島県
呉、竹原
■岡山県
尾道、倉敷、備前
■香川県
多度津
■兵庫県
赤穂、たつの、姫路、高砂、洲本
■大阪府
大阪、泉佐野
といったところでしょうか?短いスパンで港がありますから、荷物を船から降ろしてわざわざ海沿いの街道を陸路で運ぶ必要はないわけで、京や江戸に運ぶなら街道が通っている長岡(寺泊)や小浜の港で降ろして売った方が効率はいいわけです。なので北前船の荷物を北陸道などで陸路を長距離運ぶのは考えにくいですね。
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若狭と越前の関係
北前船の寄港地だった小浜藩は若狭国(浅井長政)であり、もう一つの寄港地、敦賀は敦賀藩は越前国(柴田勝家)でした。若狭の浅井と越前の柴田勝家の詳細はここでは置いておくとして、実態として敦賀藩は小浜藩の支藩だったという事情がありました。
当然、街道の起点とするには敦賀より小浜とするのが道理でしょうし需要も多いはずです。それに敦賀は小浜より京から離れているんですね。
しかし、蝦夷地の物産をいち早く今日に届けて売り捌くには、多少の距離の差はあってもわざわざ小浜まで船を移動させて荷揚げするよりも、敦賀で陸上げして陸路と琵琶湖経由で京に運んだほうが早くて安かったのかもしれません。そのために京と敦賀の間には「塩津街道(京ー琵琶湖ー塩津ー敦賀)」という街道があるのです。
もちろん主要な輸送品だった乾燥昆布や、ニシンを加工するときに出た頭は堆肥に加工されて運ばれていましたが、これは大量だったでしょうから終点の大阪まで運ばれていたのではないでしょうか?
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鯖街道ってなに?
では北前船と、日本海と京を繋ぐ鯖街道について見てみたいと思います。若狭湾の小浜を起点としていくつもの街道が京都に伸びています。これが通称”鯖街道”です。
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ここで鯖街道が敦賀に繋がっていない事が不思議に思えました。「鯖街道って北前船とは関係ないの?」
ここまで書いてきて、鯖はなぜ”小浜を起点”とする鯖街道で運ばれていたのかについて、私は大きな勘違いをしていることに気づきました。そうです、決してサバは北前船で運ばれていたわけではありません。そもそもサバは温帯や亜熱帯の暖かい海を好む魚で、北海道や東北での漁獲量はさほど多くありません。つまり北の海からわざわざ鯖を運んでくる理由がないのです。
それに当時の船は冷蔵冷凍設備もないので、鮮魚など運ぶことはできません。冷凍技術のなかった当時は、若狭湾などで捕れた生サバを塩でしめて陸送する方法が取られていて、京都まで人手で運ぶのに丸1日を要したといいます。そして京都に着くころにはちょうど良い塩加減になったというわけです。
ですから一般に「鯖街道」と呼ばれているのは敦賀が起点ではなく、より京都に近くて古くからの漁村だった「小浜」を起点にしています。小浜は敦賀から日本海を直線距離で40kmほど南西に離れた町で、江戸時代には小浜藩の小浜城があった城下町です。
もっとも北前船で運ばれてきた蝦夷や東北、新潟の物産も鯖街道を通って京都に運ばれていたのは想像に難くありません。鯖街道だからといって鯖だけしか運べないわけではありませんからね。
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敦賀は日本の玄関だった?
敦賀が鯖街道とはあまり関係ないことは理解できましたが、港町としてはどうだったんでしょうか?
以前に聞いた話では、朝鮮半島の東岸から船で日本を目指すと、海流や風の影響で山陰から北陸、能登半島や新潟に流れ着く確率が高いといいます。現在でも北朝鮮の小さな漁船が漂着するのは山陰から新潟の沿岸が多いようです。
飛鳥・奈良時代から隋や唐との交流や交易を行っていたことは日本書紀などの古い記録にも残っていますが、それは主に九州の長崎や福岡、沖縄(琉球)から瀬戸内海を通って大阪・京とに向かう航路でした。
飛鳥・奈良時代、アジア大陸の東に位置する日本にとって最も近い外国は、中国大陸、朝鮮半島の諸国でした。日本において「世界」とは東アジアを意味していたわけで、日本海を挟んで世界と対峙する北陸は九州とともに、まさに日本の玄関、ゲートウェイだったわけです。
そのため、能登半島と敦賀には「客館(きゃくかん)」と呼ばれる異国の使節を接遇するための施設が置かれて、主に渤海(ぼっかい)との交流を担っていました。
能登半島は、日本海に突き出した地形と、風の影響を受けにくい港を有したことから舟運の拠点となっており、渤海の使節が帰国する際の出港基地として位置づけられていました。一方、敦賀は当時の中心地である畿内(奈良・京都)に隣接している上に天然の良港を有し、早くから朝鮮半島との交流がありました。
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敦賀のまとめ
敦賀と北前船と旧街道の関係って?
北前船で蝦夷や東北・新潟から運ばれてきた品物は、敦賀の港でも取引されていたわけですが、敦賀(越前)から始まって、または通っていた街道は北陸道を除けば本州の太平洋側に続く街道が多く、この街道を通って京都や大阪、江戸へと運ばれていました。
鯖街道ってなに?
俗にいう「鯖街道」は、日本海で獲れた鯖を塩漬けして京都に運んだ街道を指します。もちろん鯖だけを運んだわけではなく、北前船で小浜や敦賀などに陸揚げされた品物を京都や大阪方面に運ぶのにも使われました。
敦賀は日本の玄関だった?
飛鳥・奈良時代、アジア大陸の東に位置する日本にとって最も近い外国は、中国大陸、朝鮮半島の諸国でした。日本においての”世界”とは東アジアを意味していたわけで、日本海を挟んで世界と対峙する北陸は九州とともに、まさに日本の玄関、ゲートウェイだったわけです。特に敦賀をはじめとした北陸沿岸では渤海国(現在のロシア・ウラジオストク周辺)との交流が盛んでした。