子どものころ、きれいな石を見つけると、訳もなくうれしくなった。海岸や川原で拾ったその石は、家に持って帰って丁寧に洗い、お菓子の空き缶の中で小さな宝物になった。いつの間にか、そんな時間は遠くなってしまったけれど、山梨・笛吹市には、もう一度その「手触り」を思い出させてくれる場所がある。
【放送日:2026年1月28日(水)8:15 -9:55・NHK総合】
宝石の街・山梨は、なぜ生まれたのか?
山梨と聞いて、すぐに「宝石」を思い浮かべる人は、実はそれほど多くないかもしれない。富士山、ぶどう、ワイン。そんなイメージの陰で、この土地にはもうひとつ、長い時間をかけて育ってきた顔がある。それが、宝石の加工だ。
山梨、とくに甲府盆地一帯は、かつて水晶の産地として知られていた。山から掘り出された石は、そのままではただの石ころだけれど、削り、磨き、形を与えることで初めて“宝石”になる。大きな石を割ってみると中から水晶が顔を出すことだってある。
その仕事を担ってきたのが、この土地の人たちだった。山梨には海がない。大きな鉱山が今もあるわけでもない。それでも宝石の街として名を残してきたのは、「掘る」よりも「磨く」ことを続けてきた土地だからだ。
目立たない作業を、黙々と続ける。石と向き合い、ほんのわずかな違いを見極める。そうした積み重ねの中で、山梨には宝石加工の技術と文化が根づいていった。だからこの町で語られる宝石は、高価さや希少性だけの話ではない。もっと手前にある、「石に触れる感覚」や「見つける楽しさ」から始まっている。
笛吹市・石和の宝探し体験も、そんな土地の記憶の延長線上にある。ここは、突然宝石が湧き出た場所ではない。石とともに生き、石を磨き続けてきた時間の上に、今の“宝探し”がそっと置かれているだけなのだ。
<広告の下に続きます>
笛吹市・石和という場所
「石和(いさわ)」と聞くと、多くの人が思い浮かべるのは有名な温泉地、石和温泉かもしれない。でも地図をよく見ると、そこに「石和市」という名前はない。石和は、笛吹市の一部として存在している。この少しややこしい感じが、実はこの土地らしさでもある。
笛吹市は、いくつもの町が合わさってできた市だ。その中に、温泉の町があり、果樹園が広がる地域があり、そして、石を扱う文化が残る石和がある。観光地としての顔はにぎやかでも、少し脇道に入ると、空気はぐっと落ち着く。住宅地と畑、遠くに見える山の稜線。
ここは、「何かを探しに来る場所」というより、何かに出会ってしまう場所に近い。宝石発掘体験の施設が、大きなテーマパークではなく、石和という町の中に自然に溶け込んでいるのも、そのせいだろう。
温泉で体をゆるめ、ぶどう畑の間を歩き、そして、砂の中に手を入れて石を探す。笛吹市・石和は、特別な目的を持たなくても、ふと立ち寄った人に「ちょっとやってみようかな」と思わせる余白を持っている。
宝探しは、遠くへ行かなくてもいい。こういう町の、日常の延長線上にそっと置かれているものなのかもしれない。
<広告の下に続きます>
宝石発掘体験「SAGASO ISAWA」とは?
「SAGASO ISAWA」は、名前からしてもう、ちょっといい。“探そう”。“見つけよう”。そんな子どもの頃の独り言みたいな響きがある。ここでできるのは、宝石を“買う”ことでも、完成したものを“見る”ことでもない。
砂の中に手を入れて、石を探す。それだけだ。砂の中に手を入れ、スコップやシャベルで掘り進めながら、目に留まった石をひとつずつ確かめていく。
水を使わず、砂場で探せるのも、この体験のいいところだが、温かい季節には、池の中で用意されたパン皿に砂を入れ、水の中で静かに揺らしてみる。重たいものが下に残り、軽い砂が流れていくという砂金採りのような体験だってできる。
理屈は単純だけど、やってみると、自然と口数が減る。「これかな?」「違うかな?」そんな小さな判断を、自分の目と指先だけで繰り返す。見つかる石は、いわゆる“高価な宝石”とは限らない。水晶や色のついた小さな石。でも、それでいい。大切なのは、自分の手で見つけたという事実だ。
誰かに渡されたものじゃない。説明を読んで理解したものでもない。砂の中から、自分で選び取った石。子どもも大人も、ここでは同じ姿勢になる。前かがみで、水面をのぞき込んで、真剣な顔になる。それはきっと、昔、道端で石を拾っていた頃と同じ時間の流れ方だ。
SAGASO ISAWAは、派手な演出で「宝探し」をさせる場所じゃない。忘れていた感覚を、思い出させる場所。石和という町に、こんな体験が静かに置かれているのも、なんだか納得できる気がする。
宝石発掘体験 SAGASO ISAWA
- 山梨県笛吹市石和町窪中島150
- TEL:055-263-6885
- 営業時間:8:30~17:00
- 定休日:なし
- URL:https://i-sagaso.jp/
<広告の下に続きます>
掘っているうちに、無口になる時間
宝石発掘体験で、不思議なのは、始めてしばらくすると周りが静かになることだ。誰かに「静かにしなさい」と言われたわけじゃない。でも気づくと、みんな無口になっている。
スコップで砂を掘り、手のひらにのせた石を光にかざしてみる。色、重さ、形。ほんの一瞬の判断を、何度も繰り返す。この時間には、正解も、不正解もない。「当たり」かどうかも、実はあまり重要じゃない。
集中していると、頭の中が静かになる。スマホも、時間も、少し遠くに行く。それは、子どもの頃に夢中で遊んでいたときとよく似た感覚だ。
宝探しは、騒がしいイベントじゃない。むしろ、人を静かにする。掘っているうちに、無口になる。でもそれは、退屈だからじゃない。今、この瞬間にちゃんと居るからだ。SAGASO ISAWAで流れているのは、そんな時間だ。
<広告の下に続きます>
「価値」じゃなく、「見つけた」という事実
宝石発掘体験をしていて、ふと気づくことがある。手のひらに残った石を見て、「これ、いくらなんだろう?」とは、あまり考えない。それより先にあるのは、「自分で見つけた」という子供のような感覚だ。
高価かどうか。珍しいかどうか。本物かどうか。そういう判断は、あとからいくらでもできる。でも、砂の中からその石を掘り出した瞬間のあの小さな胸の高鳴りは、あとから付け足すことはできない。
子どもの頃も、そうだった。拾った石が宝石だったかどうかなんて、誰も知らなかった。それでも、自分で見つけたという事実だけで、十分だった。
SAGASO ISAWAの宝探しは、その感覚を大人にも思い出させてくれる。ここで持ち帰る石は、コレクションの一部になるかもしれないし、いつの間にか引き出しの奥にしまわれるかもしれない。でも、「見つけた時間」だけは、ちゃんと残る。
宝の価値は、石そのものの中にあるんじゃない。それに気づいた瞬間の、自分の中にある。だからこの宝探しは、競争でも、成果でもない。見つけた、という事実そのものが、もう宝物なのだ。
<広告の下に続きます>
宝探しは、大人になってもできる
宝探しは、子どものものだと思っていた。時間があって、汚れても叱られなくて、結果を求められない、そんな特権のような遊び。でも、SAGASO ISAWAで砂を掘っていると、ふと気づく。大人になった今だからこそ、この時間が必要だったのかもしれない、と。
効率や成果、価値や理由を先に考える癖がついて、「なんの意味があるの?」と無意識に問いかけてしまう日々。その問いを、ここでは少し脇に置ける。
見つかるかどうかは、最初からわからない。でも、掘ってみる。確かめてみる。その行為そのものに、もう十分な意味がある。
子どもの頃の宝探しは、無邪気だった。大人の宝探しは、少し静かで、少し丁寧だ。それでも、胸の奥で起こる感覚は、あの頃とよく似ている。宝探しは、終わっていなかった。ただ、場所と形を変えて、今も続いているだけだった。
あさイチ中継が映し出すのは、特別な宝石の話じゃない。宝を見つける感覚を、まだ失っていないという事実だ。笛吹市・石和の宝探しは、大人になった私たちに、そっとそう教えてくれる。
