「食彩の王国|野生はそのままではおいしくならない!?──天然マガモと匠の技」

まがも BLOG
「いただきます」という言葉は、本来、「あなたの命を、私の命につなげさせてもらいます」という感謝の言葉だ。
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「天然ものは新鮮で、素材の味を生かせば美味しい!」
そんな言葉を、私たちはあまりにも簡単に口にしてきたのかもしれない。しかし、本当にそうなのだろうか?

野生で生きてきた食材は、人の都合に合わせて育ったわけではない。脂の乗り方も、肉の質も、香りも、すべてが人の想定を超えた場所にある。

今回の食彩の王国が向き合うのは、茨城県が誇る「常陸国天然まがも」。かつては農作物に被害を与える存在として扱われ、駆除の対象にもなってきた野生のマガモである。その天然マガモを、「”うまいに決まっている”食材」としてではなく、どうすれば食材になり得るのかという問いから見つめ直す。

そこに登場するのが、猟師、ジビエ職人、そして料理人たちの匠の技だ。野生は、そのままではおいしくならない。だからこそ、人は手をかけ、耳を澄まし、素材と対話する必要がある。

この物語は、「自然は素晴らしい」という賛歌ではなく、野生を引き受ける覚悟と技の記録である。

【放送日:2026年2月14日(土)9:30 -9:55・テレビ朝日】

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「野生」という食材の難しさ

マガモはジビエである。

この一言が、すべての前提になる。野生の食材は、「新鮮だから」「天然だから」という理由だけでおいしくなるわけではない。むしろその逆で、扱いを誤れば、最も難しい食材になる。

家禽として育てられた合鴨と違い、天然のマガモは、日々飛び、歩き、食べるものを選びながら生きてきた。筋肉は締まり、脂は少なく、香りは強い。個体差も大きく、人の都合に合わせて均一化されていない。

だからこそ、血抜きのタイミング、内臓の扱い、解体までの時間――その一つひとつが、味を大きく左右する。ここを誤れば、「野生臭い」「クセが強い」という言葉で片付けられてしまう。しかしそれは、素材の問題というより、人の側の準備不足であることが多い。

野生動物は、食べられるために生きてきたわけではない。だから、人が食べると決めた瞬間から、そこには責任が生まれる。

命をどう受け取るのか。どこまで丁寧に向き合えるのか。ジビエという食材は、料理の技術以前に、姿勢そのものを問う存在なのである。

天然マガモも同じだ。その難しさを引き受ける覚悟がなければ、「おいしさ」にはたどり着けない。だからこの物語は、まず「野生」という難しさから始まる。すべては、そこを避けずに見つめることからである。

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レンコン畑とマガモ──害獣とされてきた背景とは?

茨城県の霞ヶ浦周辺は、全国有数のレンコン産地である。水と土に恵まれたこの土地は、人の農の営みと、水辺の生態系が密接に結びついてきた場所だ。

そこに、冬になるとマガモが飛来する。マガモにとって、レンコン畑は貴重な餌場である。若芽や地下茎は栄養価が高く、寒い季節を越すための重要なエネルギー源となる。

しかし、人の側から見れば話は変わる。収穫前のレンコンが食べられてしまう被害は深刻で、その被害額は、毎年1億円を超えるともいわれてきた。こうしてマガモは、次第に「害獣」として扱われるようになる。

マガモが悪いわけではない。人が耕し、作物を育てた土地に、野生動物が引き寄せられるのは自然なことだ。それでも、農家の生活が脅かされる現実を、見過ごすことはできない。

この矛盾は、長い間、「守る」か「排除する」かという二択で語られてきた。結果として、多くのマガモは駆除の対象となり、食材として十分に活かされることは少なかった。

だが、その状況に疑問を投げかける声が生まれる。レンコンを食べ、田園で育ったマガモは、本来どんな味を持っているのか? ただ捨てられてきた命に、別の向き合い方はないのか? こうして始まったのが、マガモを「害獣」ではなく、土地の個性を映す食材として見つめ直す試みである。

それは自然を美化する話ではなく、人と野生が同じ場所で共存して生きるための、現実的な問いかけでもあった。この章で描かれるのは、善悪の物語ではない。野生と人の暮らしが重なったときに生じる、避けがたい摩擦の記録である。

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価値を見つめ直す挑戦「常陸国天然まがも」

マガモをめぐる状況を変えようと、2023年、茨城県は新たなプロジェクトを立ち上げた。それが、「常陸国天然まがも」のブランド化である。目的は単純な付加価値づくりではない。これまで「害獣」として駆除されてきたマガモを、土地の環境が育んだ食材として正面から評価し直すことだった。

目指したのは、本場ヨーロッパのジビエにも引けを取らない味。しかし、それは簡単な道ではない。野生のマガモは個体差が大きく、扱いを誤れば、評価は一気に下がってしまう。

だからこそ、この取り組みでは、「獲る」「処理する」「料理する」それぞれの工程を分断せず、一つの流れとして捉えることが重視された。

鮮度をどう保つか。野生の香りをどう生かすか。どこまで人の手を入れ、どこから自然に委ねるか。その一つひとつを、関わる人たちが共有し、検証していく。

ここで重要なのは、マガモを「かわいそうな存在」として救おうとしたのではない点だ。また、「おいしいから価値がある」と短絡的に語ることもしない。あくまで、人の営みと野生が重なった結果として生まれた存在を、どう引き受けるかという問いに向き合っている。

「常陸国天然まがも」という名前は、その覚悟を示すための言葉でもある。産地を明らかにし、生まれた環境とともに食べてもらう。それは、命の背景を切り離さないという選択だ。

この挑戦によって、マガモは初めて「捨てられる存在」から「価値を問われる存在」へと立場を変えた。その価値は、まだ完成形ではない。だが、問い続けることでしか到達できない場所に、確かに一歩を踏み出している。

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命を食材に変える現場──マガモ猟と鮮度の工夫

天然マガモを食材として扱う以上、避けて通れないのが、猟の現場である。そこには、確かに血が流れる瞬間がある。だがそれは、特別な暴力ではない。

肉屋に並ぶ肉も、魚屋に並ぶ魚も、少し前までは確かに生きていた。私たちは日々、命を受け取りながら生きている。猟の現場は、その事実が隠されずに現れる場所にすぎない。

「常陸国天然まがも」の取り組みでは、猟の方法にも細やかな配慮が重ねられている。目的は捕ることではなく、命をできる限り良い状態で受け取ることである。

撃ち方、回収までの時間、そしてその後の処理。特に重要なのが、血抜きと鮮度管理だ。ここを誤れば、野生の香りは雑味となり、素材の価値は一気に失われてしまう。

だから猟師は、「獲ったあと」のことを常に考えている。どうすれば苦しませずに済むか。どうすれば肉を傷めず、次の工程へつなげられるか。その姿勢は、命を奪う側の勝手な論理ではない。命を受け取る側としての責任である。

「いただきます」という言葉は、食事の前の形式的な挨拶ではない。それは、本来、「あなたの命を、私の命につなげさせてもらいます」という感謝の言葉だ。

マガモ猟の現場は、その意味を思い出させてくれる場所でもある。ここで命は、単なる“素材”になる前に、確かに一度、丁寧に見送られている。こうして初めて、野生のマガモは、次の工程――加工と料理へと進むことができる。この現場の積み重ねがなければ、「おいしさ」は決して語れないのである。

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味を引き出す要──ジビエ職人の仕事

猟の現場から料理人の厨房へ――その間に立ち、味の行方を決定づけるのが、ジビエ職人である。「常陸国天然まがも」の取り組みで、その要となっているのが、ジビエ職人の櫻井太一さんだ。

野生のマガモは、獲った瞬間に「食材」になるわけではない。そこから先は、血の抜き方、内臓の扱い、温度管理、熟成の見極め――一つでも判断を誤れば、持ち味は失われてしまう。

ジビエ職人の仕事は、肉を“加工する”ことではない。野生が持っている味を、壊さずに引き渡すことである。マガモの個体差は大きい。食べてきたもの、飛んできた距離、体の状態。それらを見極め、「この個体はどう扱うべきか」を判断するのは、数値ではなく、経験と感覚だ。

処理の現場では、無駄な動きはない。スピードと丁寧さは、矛盾しない。むしろ、早さこそが鮮度を守る。その積み重ねが、料理人の手に渡ったとき、初めて“素材の声”として立ち上がる。料理人が安心して包丁を入れられるのは、その前段で、すべてが整えられているからだ。

ジビエ職人は、猟師と料理人のあいだに立ち、命と技をつなぐ役割を担っている。華やかな料理の背後で、人知れず行われるこの仕事がなければ、天然マガモは評価されることなく終わってしまう。「おいしさ」は、現場の連携と信頼の上にしか成り立たないのである。

こうして整えられた天然マガモは、ようやく料理人の舞台へと向かう。次に求められるのは、素材に応える、もう一段階の匠の技だ。

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匠の技で応える料理人たち

ジビエ職人の手を経て整えられた天然マガモは、いよいよ料理人の現場へと渡される。ここで求められるのは、素材を主張でねじ伏せる技ではない。野生の個性を読み取り、最適な答えで応える技である。

常陸大宮市のフレンチレストラン「RESTAURANT YOSHIKI FUJI」。オーナーシェフの藤 良樹さんは、ムネ肉をじっくりとローストし、包丁の入れ方一つで香りの立ち方を変える。脂の少ない野生の肉は、火を強めればすぐに硬くなる。だからこそ、温度と時間を精密に操り、旨みが開く瞬間だけを狙う

土浦市の日本料理店 「よし町」では、店主の木村英明さんが、常陸秋そばの実と天然マガモを合わせる。香ばしさと粒立ちが、野生の旨みを受け止め、和の文脈で“土地の味”を立体的に描き出す。

さらに水戸市「レストラン オオツ」では、若手料理人の大津高彬さんが、内臓や骨まで使い切る新作に挑む。丸ごと向き合う姿勢は、無駄を出さないためではない。命を分断せずに受け取るための、現代的な答えである。

三者三様。だが共通しているのは、「野生を均す」のではなく、野生に合わせて技を変えるという姿勢だ。猟師、ジビエ職人、料理人――それぞれの現場が連なってこそ、天然マガモは“食材”として正当に評価される。

皿の上で完成するのは、味だけではない。土地、命、技、責任。それらが重なったとき、「おいしい」は初めて、言葉に耐えるものになる。

RESTAURANT YOSHIKI FUJI

よし町

Ohtsu

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野生を食べるということとは?

野生を食べるという行為は、「珍しいものを味わう」ことではない。それは、命の背景まで引き受けるという選択である。

天然マガモは、人のために育てられた存在ではない。土地で生き、季節を渡り、ときに人の営みと衝突しながら、生き抜いてきた。その時間を、料理という形で受け取るには、多くの手と、深い技と、強い覚悟が必要になる。

猟師が命を受け止め、ジビエ職人が素材へと整え、料理人が技で応える。どの工程が欠けても、「おいしさ」にはたどり着けない。そこにあるのは、分業ではなく、責任の連なりだ。

「いただきます」という言葉は、その連なりの先で、私たちが口にする唯一の言葉である。それは感謝であり、同時に約束でもある。
――無駄にしないこと。
――軽く扱わないこと。

「常陸国天然まがも」の物語が教えてくれるのは、野生を美化することでも、排除することでもない。野生とどう折り合いをつけて生きるかという、とても現実的で、人間的な問いだ。

静かに、丁寧に、手をかける。その積み重ねの先にだけ、「本当においしい」という言葉が許される。野生を食べるということは、生き方を問われることなのかもしれない。

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