こんにちは鳥巣です。10月28日のブラタモリでは山口県の錦帯橋が登場します。岩国市は山口県の東部、広島県との県境に近くに位置しています。世界遺産「厳島神社」にもほど近い場所です。
実は、かつて米軍厚木基地(神奈川県大和市)に相模湾沖から米空母の艦載機が飛来していた頃には、神奈川でもしばしば戦闘機の爆音が響いていましたが、現在は艦載機を米軍岩国基地(滑走路が海沿いにある)が引き受けてくれたので、神奈川では以前ほどの騒音被害はなくなりました。
そういう意味ではとても岩国と関係が深く、岩国市民にお世話になっている神奈川県民なのです。
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錦帯橋はなぜあの場所にあるのか?誰が?どうやって作った?
岩国藩は、江戸時代には長州藩の支藩とされてきましたが、長州藩は幕府に届けを出していませんでした。長州藩毛利家の一門だった吉川(きっかわ)家が領主だったので”通称”吉川(きっかわ)藩とも呼ばれていました。ここでは「岩国領」と呼びます。
吉川家の3代目・吉川広家は毛利家の家臣でしたが、関ヶ原の戦いの前に毛利家の存続にために徳川に内通したことで、関ヶ原後、吉川広家の努力で毛利家は取り潰されず、2カ国の国持ち大名に格下げされたものの改易(取り潰し)は免れました。
そんな吉川広家が政務の中心に選んだのが横山(現在の山口県岩国市横山)でした。錦川を挟んで山を背負う地形が、防衛にも有利だったからです。
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錦川により分断された城下町を繋ぐため、錦川には早くから橋が架けられました。しかし、洪水の度に橋は流失していました。しばらくして幕藩体制が整い平和な時代が訪れると、「流されない橋」を架けることが、岩国領の悲願になりました。
岩国領初代領主の吉川(きっかわ)広嘉は橋の研究に取り組みますが、解決策は容易には見つかりません。ある時、広嘉は明の僧から、名勝・西湖の本を入手します。そこには、5つの小島を繋ぐ6つのアーチ橋が描かれていました。これにより広嘉は錦帯橋の着想を得たと言われています。
それは、錦川に4つの橋脚を築いて、それらを5つの橋によって繋ぐというものでした。そして1673年、着想と技術が実を結び、錦帯橋は創建されました。
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創建の翌年、錦帯橋は洪水に伴う橋脚の崩壊によって流失してしまいますが、周辺の川床に捨石を投入して敷石を補強する対策をしてすぐに復旧に取り掛かり、年内には再建工事を完成させました。
その後は250年以上にわたって流出を免れ、修復と架け替えを重ねながら長い間、人々の往来を支えてきました。城下町に暮らしていた江戸時代の武士たちも、普段からこの橋を渡ってお城まで出勤していたのでしょうか?
そんな錦帯橋も、1950年(昭和25年)には台風により流失してしまいます。しかし市民一丸となった取り組みにより1953年(昭和28年)に再建を果たしました。こうして、錦帯橋は時代を乗り越え、今もなお、同じ場所に、同じ姿で在り続けています。
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錦帯橋はどうやって作られているのか?
錦帯橋は1本の釘も使わずに組み上げられているといいます。その構造は次のとおりです。
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桁の1番から4番までは橋脚に固定されます。桁を橋脚に固定するには「沓鉄(くつてつ)」という金具が昭和の架け替えから使われています。創建から昭和の流失までは、橋脚中央に「隔石(へだていし)」を設けてアーチの桁を受けていましたが、昭和になって橋脚が鉄筋コンクリート構造になったことに伴い沓鉄が考案されました。
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2番の桁から9番の桁までは、「桁の間に楔(くさび)」を入れて橋の勾配を緩やかにしていきます。その先の10と11番の桁は全体の1/3を迫り出させながら、9番の桁の上に乗っているだけです。
桁の横方向(橋の幅)は「梁(はり)」を使って固定しますが、梁には自重以外の荷重はかからないので、複雑な構造は必要ありません。
橋脚から11番の桁までを両側から組み上げて伸ばしたら、その間に「棟木(むなぎ)」を入れて結合します。こうすることで橋(桁)にかかる荷重は全体として横方向に押される力となって、橋脚と棟木で支えられるようになるというわけです。古代ローマ時代の石造のアーチと似た力学構造ですね。
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一組のアーチが完成するまではアーチを支える足場が必要になりますが、一旦組み上がってしまえば足場は必要なくなり、強固な橋脚さえあれば川の中に支えを残しておく必要はなくなるので、川の水が増水しても橋には水の力が掛からないんですね。
もっとも昭和25年に流出してしまった時には、川の水が橋脚の高さを超えて流れていますから、橋自体も流されてしまったのでしょうね。近年は気候変動の影響なのか、この手の豪雨災害で近代的な橋も全国で流される被害が続出しています。
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錦帯橋のまとめ
錦帯橋はなぜあの場所にあるのか?誰が?どうやって作った?
錦帯橋は錦川で二分されていた岩国城の城下町を繋ぐために掛けられていた橋が、洪水でたびたび流出してしまったため、毛利元就の家臣で岩国領初代領主の吉川(きっかわ)広嘉が、「流されない橋」を作ろうと、明朝の西湖にある堤に架かる連なった橋からヒントを得て1673年に創建されました。
その後、昭和25年(1950年)まで、何度か架け替えや修復を経ながら流出することなく、250年以上も現在の場所にあり続けました。
錦帯橋はどうやって作られているのか?
錦帯橋は1本の釘も使わず、桁を強固な石造の橋脚の沓鉄(くつてつ)で支えるアーチ構造にすることで、自重や上を通る人や荷物の荷重に耐える構造で組み上げられた木造の橋です。