新日本風土記|雪はすべてを包み、酒は人生をほどく——秋田・川反 雪の酒場街

夜の歓楽街を歩く老人の後ろ姿 BLOG
店を出ると、雪は変わらず、静かに降り続いている。さっきまでいた酒場の灯りが、少しだけ遠くなる。
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雪の降る土地では、夜が長い。人は家に閉じこもるのではなく、灯りのある方へ、自然と歩き出す。
秋田・川反。行ったことのない街の名を口にすると、どこかで酒の匂いと、低い話し声が重なって聞こえてくる。川反は、派手な歓楽街ではない。けれど、雪の夜を越えるために、人が集まり続けてきた街だという。

——舞に人生を込めた芸者がいて、百年近く火を落とさないおでん屋があり、酒を「物語とともに」飲む人たちがいる。知らない街だからこそ、今日は少し、歩幅を落としてみたい。

【放送日:2026年1月22日(木)14:55 -15:54・NHK-BS】

雪の夜、人は川反へ集まった

秋田の冬は、雪がすべてを覆う。通りの輪郭も、昼と夜の境目も、ゆっくりと溶かしていく。けれど不思議なことに、雪が深くなるほど、人の気配は川反へと集まってきた。

川反は、秋田市の中心にありながら、どこか一歩奥へ入った場所のような空気をまとっている。大通りの賑わいから外れ、灯りが点々と連なる細い道の先に、酒場や料亭が続く。

明治から昭和にかけて、川反は秋田随一の花街として栄えた。芸者が舞い、料理人が腕を振るい、客は雪を払いながら、夜の時間をここに預けた。

雪の夜は、移動が億劫になる。それでも人は、家に閉じこもるよりも、誰かのいる場所を選んできた。温かい料理と、盃の酒と、言葉があってもなくても許される時間を求めて。

川反は、華やかさで人を呼んだ街ではない。雪に閉ざされる季節を、一緒にやり過ごすための場所だった。だから今も、この街の夜は騒がしくない。足音を吸い込む雪と、暖簾の奥から漏れる灯りが、静かに人を迎え入れている。

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舞に人生を込めた、川反芸者という存在

川反の夜を語るとき、避けて通れないのが、芸者の存在だ。川反芸者は、ただ客をもてなすための存在ではなかった。舞や唄、所作のひとつひとつに、その人自身の人生が滲み出る世界だったという。

明治から昭和にかけて、川反は花街として栄え、料亭の座敷には、芸者の舞が欠かせなかった。だが、その舞は華やかさを競うものではない。雪国の夜にふさわしい、抑えた動きと、間を大切にする表現だった。

番組で紹介される、伝説と呼ばれた川反芸者も、特別な生まれや才能だけで語られる人ではない。時代の波に揉まれ、思うようにならない人生を歩きながら、それでも舞に立ち続けてきた人だ。

芸は、若さだけで完成するものではない。年を重ね、別れを知り、言葉にできない感情を抱えた先に、初めてにじみ出る深さがある。川反の芸者の舞には、そうした人生の重みが、そのまま刻まれていた。

雪の夜、客はただ舞を見るのではなく、その人が生きてきた時間ごと、盃を傾けていたのだと思う。今、花街としての賑わいは昔ほどではない。それでも、川反の夜に残る静けさの中には、かつて舞に託された人生の気配が、確かに息づいている。

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百年続くおでん屋、無言の所作

川反の夜には、声を張らずに続いてきた店がある。暖簾をくぐると、大きな仕込み音も、威勢のいい呼び込みもない。あるのは、湯気と、鍋の中を見つめる一人の店主の背中だ。

このおでん屋は、およそ百年近く、同じ場所で火を入れ続けてきたという。代が変わり、時代が変わっても、鍋の前に立つ姿勢だけは変わらない。

番組が映し出すのは、寡黙な店主の、無駄のない所作だ。具材を取り、器に盛り、客に差し出すまで、ひとつの動きも急がない。そこには、「見せるための仕事」はない。効率を競うでもなく、味を誇る言葉も添えられない。ただ、長い時間の中で身についた手の動きが、自然とそこにある。

芸者の舞が、人生を重ねることで深まっていくように、このおでんもまた、積み重ねられた時間そのものが味になっている。客は、多くを語らない。店主も、多くを聞かない。それでも、盃と湯気のあいだで、不思議と心はほどけていく。

雪の夜、人はなぜ、川反へ集まってきたのか。その答えは、こうした無言の所作の中にあったのかもしれない。

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酒は、物語とともに飲まれる

川反の酒場には、「うるさく盛り上がるための酒」は、あまり似合わない。盃を重ねながら、誰かの話を無理に引き出すこともしない。聞かれなければ語らず、語られなければ、それを受け止める。

番組が紹介するのは、ビルの二階にひっそりと構えられた、日本酒の酒場。迷宮のように並ぶ酒瓶の一本一本に、銘柄だけでなく、土地や人の物語が添えられているという。

ここでは、酒は単なる飲み物ではない。どこで生まれ、どんな思いで仕込まれ、なぜ今、この一杯がここにあるのか。それを知りたい人だけが、静かに耳を傾ければいい。

話したくない夜もある。誰にも説明したくない過去を、そっと胸にしまっておきたい夜もある。そんなとき、川反の酒場は、無理に明るくもしなければ、無理に慰めもしない。

酒は、飲む人の人生に寄り添うだけだ。語られる物語もあれば、語られない物語もある。どちらも同じように尊重される。だからこの街には、人生を重ねた人たちが、自然と集まってくるのかもしれない。雪の夜、杯の向こうで交わされるのは、言葉よりも、生き方そのものなのだと思う。

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音を運ぶ人、技をつなぐ人

川反の夜には、酒や料理とは少し違うかたちで、この街と関わり続けてきた人たちがいる。その一人が、“流しのてっちゃ”と呼ばれる尺八吹きだ。知的障害を抱えながらも、川反の酒場を渡り歩き、音を届けてきた。

彼の音は、拍手を求めるためのものではない。場を支配するでも、盛り上げるでもない。ただ、その場にそっと置かれる。雪の夜、言葉を飲み込んだ人たちの背中に、尺八の音がふっと触れる。それだけで、十分だった。

もう一つ、川反の奥には、祖父の技を受け継ぐ“毛ばりちゃん”の姿がある。中居釣具店という釣具店。海と夜のそばで毛針を作っている。派手な継承ではない。「守る」と声高に言うわけでもない。

ただ、祖父が残した手の感覚を、自分の手に移し替えるように続けている。技は、誰かに見せるためだけにあるものじゃない。暮らしの中で、当たり前のように使われてこそ、生き延びる。

川反が守ってきたのは、名声でも、賑わいでもない。こうした、目立たない人と技が、静かに息をしていられる余白だった。音を運ぶ人。技をつなぐ人。どちらも、街の中心には立たない。けれど、その存在があるからこそ、川反の夜は、今も深みを失わずにいる。

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雪の酒場街が、今も人を迎える理由

店を出ると、雪は変わらず、静かに降り続いている。さっきまでいた酒場の灯りが、少しだけ遠くなる。川反の夜は、別れを惜しむように人を引き止めない。「また来いよ」と声をかけることもない。それでも不思議と、人はこの街を、何度も思い出す。

ここでは、無理に笑わなくていい。無理に語らなくていい。自分の距離感のままで、夜を過ごすことが許されている。雪が深い土地では、人と人の間に、ほんの少しの間(ま)が必要だった。近づきすぎず、離れすぎず、それぞれの人生を尊重するための間だ。

川反は、その間を、ずっと大切にしてきた街なのだと思う。芸に人生を込めた人がいて、黙々と鍋に向き合う人がいて、音を運ぶ人、技をつなぐ人がいる。誰も主役になろうとせず、それぞれが、それぞれの場所で夜を支えてきた。

雪の酒場街は、派手に変わらない。けれど、消えもしない。今日もまた、誰かが灯りに引き寄せられ、静かに暖簾を潜る。川反は、そんな夜を、これからも迎え続けていく。

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