気になる家|なぜこの長屋は残ったのか?──清澄白河・下町のコンクリート長屋が語る記憶

清澄長屋を眺める女性 BLOG
東京の下町には、生活の中に溶け込んだまま残っている“最先端”がありました。それは、誇らしくもあり、同時に、そっとしておきたい価値でもあります。
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東京・清澄白河の下町を歩いていると、ふと視線を引き留める、不思議な建物があります。ずらりと連なるコンクリート造りの長屋。どこか凝った装飾をまといながらも、派手に主張するわけではなく、長いあいだそこに「在り続けてきた」ようなたたずまいです。

この建物は、通称「清澄長屋」。正式には、旧東京市営店舗向住宅と呼ばれ、今からおよそ100年前、関東大震災後の復興事業として建てられました。当時としては最先端だった鉄筋コンクリート造の耐震住宅で、店舗と住まいが一体となった、実験的な建築でもありました。

東京大空襲で周囲が焼け野原となる中、このコンクリートの長屋は残り、人々の暮らしを守ってきたといいます。そして現在もなお、カフェやギャラリー、住まいとして使われ続けています。

NHK「気になる家」は、そんな清澄白河のコンクリート長屋に焦点を当て、築100年の壁や天井に刻まれた時間、そして、今も人を惹きつける理由を探っていきます。

なぜ、この家は残ったのか。なぜ、いまも使われ続けているのか。下町の一角にひっそりと立つ「気になる家」には、街の歴史と、人の物語が静かに息づいています。

【放送日:2026年1月12日(月)18:05 -18:34・NHK総合】

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清澄白河に残る「気になる家」とは?

東京・清澄白河 の下町エリアを歩いていると、思わず足を止めてしまう一角があります。木造の家が並ぶはずの場所に、ずらりと連なるコンクリート造りの長屋。それが、今回の番組で取り上げられる「気になる家」です。

この建物は、通称「清澄長屋」と呼ばれています。清澄通りに沿って、およそ250メートルにわたって続くその姿は、一見すると店舗が連なる商店街のようでもあり、よく見ると、どこか統一感のある住宅の集合体にも見えます。

特徴的なのは、下町の長屋という言葉から想像される木造の家並みとはまったく異なる、鉄筋コンクリート造であること。装飾の施された外観や、連なりながらも一軒一軒に個性を感じさせる造りは、「なぜ、ここに?」という違和感を自然と生み出します。

この長屋の正式名称は、旧東京市営店舗向住宅。現在も実際に人が暮らし、カフェやギャラリーなどの店舗が入居しています。観光地として大きく紹介されるわけでもなく、けれど確かに、通りを行く人の視線を引きつける存在です。

旧東京市営店舗向住宅(出典:NHK)
旧東京市営店舗向住宅(出典:NHK)

NHKの 気になる家 は、そんな「なぜか気になってしまう家」に焦点を当て、その建物が生まれた背景や、そこに積み重なってきた時間を丁寧にひも解いていきます。

このコンクリートの長屋は、単に古い建物だから目を引くのではありません。そこには、街の歴史と人の暮らしが交差してきた理由があり、今もなお、人を惹きつける何かが息づいています。

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1928年、震災復興のために建てられた最先端住宅

清澄白河に残るコンクリート長屋は、1928年(昭和3年)、関東大震災後の復興事業の一環として建てられました。当時の東京は、震災によって街の大部分が焼失し、「これからどんな都市をつくるのか」が真剣に問われていた時代です。

この長屋を建設したのは、当時の東京市。木造建築が主流だった時代にあって、鉄筋コンクリート造という選択は、明らかに“未来を見据えた”ものでした。耐震性・耐火性を備えた建物で、人々の暮らしを守ろうとした意志が、建物そのものに込められていたのです。

さらに特徴的なのが、「店舗付き住宅」という形式。単に住むための家ではなく、商いと生活が一体となった空間として設計されていました。下町の営みを支えながら、災害に強い街をつくる——そんな理想が、この長屋には託されていました。

清澄通りに沿って、およそ250メートルにわたって連なるその姿は、復興期の都市計画を、今に伝える“生きた資料”でもあります。一軒一軒は控えめでありながら、連なったときに生まれる強さと存在感。それは、偶然ではなく、意図して設計された風景でした。

この場所一帯は、戦時中には被害も大きかった地域として知られています。そうした土地の記憶を知るほどに、このコンクリート長屋が、その後の時代をくぐり抜けてきた事実は、より重く、より不思議に感じられます。

震災から始まり、やがて戦争という時代へ向かう東京。その只中で建てられたこの住宅は、単なる「古い建物」ではなく、都市が生き延びようとした痕跡そのものなのかもしれません。

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空襲をくぐり抜け、人々を守った建物

清澄白河一帯は、近代の東京において、大規模な火災の記憶と無縁ではない土地です。関東大震災、そして戦時下の空襲――時代は違えど、「火」が街と人々の命を脅かしてきました。特に、現在の江東区周辺は、震災時や戦時に甚大な被害を受けた地域として知られています。

東京大空襲で一面の焼け野原になった下町(出典:TBSラジオ)
東京大空襲で一面の焼け野原になった下町(出典:TBSラジオ)

そうした記憶が生々しく残る場所だからこそ、震災復興期に建てられた耐火性の高い鉄筋コンクリート造の住宅には、切実な意味がありました。

東京大空襲の際、周囲が焼け野原となる中で、清澄通り沿いのコンクリート長屋は残ったといいます。奇跡的、と言いたくなるその事実の背景には、偶然だけでなく、「燃えない建物をつくる」という明確な意志がありました。

この長屋は、人々を閉じ込めるための“堅牢な箱”ではなく、日々の商いと暮らしを包み込みながら、非常時には命を守る「器」として機能することを想定されていました。災害の経験が、建築という形で具体化された結果とも言えます。

時代の荒波の中を、この建物はただ立っていたわけではありません。人が住み、店を営み、暮らしの明かりが灯り続けていた。その積み重ねこそが、建物を「生き残らせた」理由なのかもしれません。

火災の悲劇を知る土地に、燃えにくい家が建てられた。その選択は、未来の誰かを守るための、静かな決断だったようにも思えます。

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築100年でも、いまも使われ続ける理由とは?

清澄白河のコンクリート長屋が特別なのは、「保存されている建物」ではなく、今も日常の中で使われている建物であることです。築100年近い年月を経た現在も、この長屋には人が住み、カフェやギャラリー、店舗が営業を続けています。

外から眺めるだけの歴史遺産ではなく、暮らしと商いが今も息づく“現役の建物”なのです。その理由のひとつは、もともとの設計にあります。店舗付き住宅として造られたこの長屋は、通りに面して開かれ、人の出入りを自然に受け入れる構造をしています。時代が変わっても、「使い道を想像しやすい」間取りだったことが、用途の変化を可能にしてきました。

もうひとつは、古さを無理に消さず、時間の痕跡を受け入れてきたこと。壁や天井の表情、完全には均一でないつくり。それらは不便さでもありますが、同時に、この場所にしかない魅力にもなっています。

新しい建物のように効率的ではなくても、ここでしか得られない空気がある。そう感じる人たちが、この長屋に集まり、手を入れながら使い続けてきました。

取り壊されることも、博物館になることもなく、「暮らしの場」であり続ける。それは、この建物が過去のためではなく、現在の人々にも必要とされている証なのかもしれません。

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壁や天井に刻まれた“時間”と、家の魅力とは?

清澄白河のコンクリート長屋に足を踏み入れると、まず感じるのは、新しさではなく、時間の重なりです。壁や天井には、長い年月を経て生まれた陰影や色むらがあり、それが空間全体に、独特の落ち着きを与えています。

戦後の高度経済成長期、東京では多くの建物が「古いから」「効率が悪いから」という理由で姿を消しました。けれどこの長屋は、そうした時代をくぐり抜け、取り壊されることなく残ってきました。そこには、この場所で暮らし、商いを続けてきた下町気質の人々の存在もあったのかもしれません。

すぐに壊して新しくするのではなく、手を入れ、直し、使い続ける。多少の不便さも受け入れながら、「まだ使える」「ここがいい」と思う感覚です。コンクリートの壁に残る小さな傷や、天井に刻まれた時間の跡は、劣化というよりも、この家が人の生活を受け止めてきた証のように見えます。何度も塗り替えられ、補修されながら保たれてきたその表情は、新築の建物にはない深みを持っています。

この長屋の魅力は、デザインの美しさや希少性だけではありません。人の手が入り続けてきたこと、そして、「壊さずに使う」という選択が積み重ねられてきたこと。その歴史そのものが、家の魅力になっているのです。

古いから価値があるのではなく、使われ続けてきたから、価値が生まれた。壁や天井に刻まれた時間は、この家が今も人を惹きつける理由を、静かに物語っています。

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「家」が語る、街と人の記憶

スペイン・バルセロナの街角に残るモデルニスモ建築は、時代の先端でありながら、今も暮らしの中に溶け込み続けています。大胆な素材使いと装飾、そして「未来を信じる意志」が、建物そのものに刻まれている点が印象的です。

清澄白河のコンクリート長屋にも、どこかそれに通じる空気があります。木造が当たり前だった下町に、鉄筋コンクリートという“新しい素材”を持ち込み、商いと生活を一体にする――当時としては、かなり先鋭的な試みでした。

モデルニスモの建築家、アントニ・ガウディが自然や地域性を取り込みながら建築を進化させたように、この長屋もまた、下町の暮らしと災害の記憶を受け止めながら、独自のかたちへと成熟していったのかもしれません。違いがあるとすれば、それが“名のある建築”として語られてこなかったこと。観光名所になることもなく、派手に称賛されることもなく、ただ静かに、人々の生活を支え続けてきました。

だからこそ、この長屋は、建築史の中の記号ではなく、街と人の記憶が染み込んだ存在として、今も説得力を持っています。清澄白河のコンクリート長屋は、下町に根ざした、もうひとつの“モデルニスモ”。未来を思い描き、壊さずに使い続けるという選択が、100年という時間を超えて、いまの私たちに語りかけているのです。

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まとめ|下町に残る“こっそり誇れる建築”という価値

清澄白河のコンクリート長屋は、有名な建築家の名前が刻まれた建物でも、華やかな観光名所でもありません。けれど、関東大震災後の復興期に生まれ、戦争と高度経済成長をくぐり抜け、今もなお人の暮らしの中で使われ続けてきた、とても稀有な存在です。

世界的に知られるモデルニスモ建築が、観光地として切り取られていく一方で、東京の下町には、生活の中に溶け込んだまま残っている“最先端”がありました。それは、誇らしくもあり、同時に、そっとしておきたい価値でもあります。

この長屋が魅力的なのは、「古いから」でも「珍しいから」でもありません。人が住み、商いをし、手を入れながら使い続けてきたこと。その積み重ねが、建物に説得力を与えてきました。注目されること自体は悪いことではありません。けれど、過度な評価やラベル貼りによって、暮らしの場が消費されてしまうことには、少しだけ立ち止まりたくなります。

清澄白河のコンクリート長屋は、声高に誇るための建物ではなく、知っている人が静かに大切にしたくなる存在。下町に残る、“こっそりと自慢できる建築”として、これからも、生活とともに息づいていてほしい――そんなふうに思わされる「気になる家」でした。

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