山でシカに出会うと、思わず「かわいい!」と声を上げてしまいます。ところが、その同じシカが里に下りてきて、畑の野菜や大切に育てた花を食べてしまうと、今度は「有害鳥獣」と呼ばれるようになります。
かつては数が減りすぎて保護されていたシカが、今では増えすぎたとして捕獲されている地域もあります。シカは、ただ頑張って生きているだけなのに…。人間との関わり方が変わることで、守るべき命が、奪わなければならない命へと変わってしまうのです。では、その奪った命を、私たちはどうすればいいのでしょうか?
食べるために命を奪うことと、農作物を守るために奪った命を食べること。似ているようで、そこには大きな違いがあるように思えます。NHK『Dearにっぽん』で紹介されたのは、三重県の山あいで50年以上わな猟を続けてきた古田洋隆さんと、その技術と心を受け継ごうとする娘の愛さん。
「頂く命を無駄にせず、生かし切る」
その信念の向こうには、単なる狩猟の技術では語れない、命との向き合い方がありました。かわいいから守る。困るから奪う。それだけで、命の重さを決めてしまっていいのでしょうか?
今回は、シカと人間の関係が変わってきた歴史をたどりながら、「食べるために殺す」と「殺したから食べる」の間にあるものを、一緒に考えてみたいと思います。
【放送日:2026年10月18日(日)8:25 -8:50・NHK-総合】
【放送日:2026年10月22日(木)1:25 -1:51・NHK-総合】
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かわいいシカは、いつから「有害鳥獣」になったの?
丹沢の塔ノ岳。標高1491メートルの山頂には、登山者のすぐ近くまで姿を見せるシカがいます。雄大な山並みを背景に、のんびりと草を食べるシカたち。その姿は登山者に親しまれ、山頂で出会える楽しみのひとつにもなっています。
沖縄の慶良間諸島でも、似たような光景に出会えます。阿嘉島や慶留間島に生息するケラマジカは、観光客にとって人気者。道端にひょっこり姿を現せば、「かわいい!」とカメラを向けたくなるものです。
ところが、島で暮らす人たちにとっては、必ずしも歓迎できる存在ではありません。畑の野菜を食べ、大切に育てた花を食べ、家の周りには糞を残していく。旅人にとっては、たった一度の微笑ましい出会いでも、住民にとっては毎日の暮らしに関わる切実な問題なのです。
同じシカなのに、見る人の立場が変わるだけで、「かわいい動物」にも「困った動物」にもなってしまう。そして、その困った動物に、人間は「有害鳥獣」という名前をつけました。
もちろん、農作物を守ることは大切です。丹精込めて育てた作物を食べられれば、農家の暮らしそのものが脅かされることもあります。だから、被害を防ぐために捕獲が必要になる場合もあるのでしょう。
けれど、少しだけ考えてみたいのです。シカは、人間を困らせようとして畑に入ってくるわけではありません。ただ、お腹が空いたから食べ物を探している。それだけのことです。シカが変わったのではありません。変わったのは、シカを見る人間の立場なのです。
山の中にいれば、かわいい野生動物。人里に現れれば、有害鳥獣。でも、そのどちらも、同じひとつの命です。では、かつては守るべき存在だったシカが、なぜ今では捕獲されるようになったのでしょうか。その答えを探すには、人間とシカが歩んできた歴史を、少し振り返る必要がありそうです。
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守っていたシカを、なぜ今は捕獲するの?
今では丹沢の山々で見かけることもあるシカですが、かつては絶滅が心配されるほど数が減っていたことをご存じでしょうか。戦後、開発や乱獲などによってシカが激減した神奈川県では、1955年から1970年まで、県内全域でシカ猟が禁止されていました。つまり、今から70年ほど前、シカは人間が積極的に守ろうとしていた動物だったのです。
ところが、その後、状況は大きく変わっていきます。戦後の日本では、木材を生産するために山の広い範囲で森林が伐採され、スギやヒノキの植林が進められました。実は、この植林地がシカにとって格好の餌場になったのです。
木を伐採したあとの明るい土地には、草や若い植物が育ちます。そこにシカが集まり、保護政策の効果も重なって、個体数や生息範囲が回復していきました。ところが、1960年代後半には植林した苗木を食べる被害が問題になり、1970年には一部の地域でシカ猟が再開されました。
かつて守ろうとしていたシカを、今度は人間が捕獲するようになったのです。そして、問題はそれだけでは終わりませんでした。シカが高い密度で生息するようになった森林では、地面を覆っていたササや若い木々が食べられ、植物が育ちにくくなってしまいました。
森の下草が失われれば、雨によって土が流されやすくなります。植物をすみかとする昆虫や、ほかの動物たちにも影響が及ぶおそれがあります。つまり、シカを守ることが、必ずしも森全体を守ることにはならなくなったのです。では、どうしてこれほどシカが増え、各地に生息範囲を広げたのでしょうか?
その背景には、狩猟者の減少や高齢化、雪の少ない冬の増加、そして里山の変化など、いくつもの要因があると考えられています。かつて人々が田畑を耕し、薪や炭を得るために利用していた里山では、人間の活動が減り、耕作放棄地も増えました。
そうした土地が、シカやイノシシの餌場や隠れ場所になることもあります。もちろん、シカが増えた理由をすべて人間のせいにすることはできません。けれど、人間が森林を開発し、シカを保護し、里山での暮らし方を変えてきたことも、現在の状況と無関係ではないのです。
人間が変えてきた自然環境の中で増えたシカを、今度は自然を守るために減らさなければならない。なんとも皮肉な話ではないでしょうか。そして、その難しい役割を担っている人たちがいます。農作物や森林を守るために、野生動物を捕獲する猟師たちです。
では、暮らしや自然を守るために奪った命を、そのあとどう扱えばいいのでしょうか。ここからは、三重県で50年以上わな猟を続けてきた古田洋隆さんの姿を通して、もう少し深く考えてみたいと思います。
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「食べるために殺す」と「殺したから食べる」は、何が違うの?
私たちは毎日のように肉を食べています。牛肉、豚肉、鶏肉。スーパーに並ぶ肉を買い、料理して、おいしくいただく。けれど、その肉が生きていた動物の命だったことを、普段どれほど意識しているでしょうか? もちろん、家畜も野生動物も、命の重さに違いはありません。
ただ、私たちが肉を食べるまでの道筋には、大きな違いがあります。家畜は、食肉として利用することを目的に育てられています。一方、農作物を守るために捕獲されるシカやイノシシは、必ずしも食べるために命を奪われるわけではありません。
畑を荒らす動物を減らさなければ、農家の暮らしが成り立たない。森林の植物が食べ尽くされれば、ほかの生き物たちの生息環境まで失われてしまう。そうした被害を防ぐために、野生動物を捕獲する必要が生まれるのです。
日本では、狩猟期間中に狩猟免許などに基づいて行う「狩猟」と、農林業被害の防止などを目的として許可を受けて行う「有害鳥獣捕獲」は、制度上も区別されています。つまり、動物を捕まえるという行為は同じでも、その目的は必ずしも同じではないのです。
NHK『Dearにっぽん』に登場する古田洋隆さんは、三重県の山あいで50年以上にわたって猟を続けてきた、わな猟の名人です。動物の行動を読み、通り道を見極め、独自のわなで捕獲する。その技術によって、年間600頭ものシカなどを捕獲した実績があるといいます。けれど、古田さんが大切にしているのは、捕まえる技術だけではありません。
「頂く命を無駄にせず、生かし切る」
その信念のもと、捕獲した動物の血抜きなどの処理技術も追求してきました。ここに、現代の狩猟が抱える難しい問題があるように思えます。
食べるために命を奪うのであれば、その肉を食べることは、最初から目的のひとつです。けれど、農作物を守るために捕獲した動物の場合、命を奪うことが先にあり、そのあとで肉を食べるという選択が生まれます。
「食べるために殺す」のか? それとも「殺したから食べる」のか?
どちらも最後には肉を食べるとしても、そこに至る人間の事情は違うのです。そして、もうひとつ考えたいことがあります。捕獲した動物を食べれば、その命は無駄にならなかったと言えるのでしょうか? 反対に、食肉として利用できず、処分するしかなかった命は、すべて無駄だったのでしょうか?
農作物を守り、人々の暮らしを支えるために行われた捕獲にも、社会的な意味があります。だから、食べることだけが、奪った命を大切にする唯一の方法だとは言い切れません。それでも、古田さんは、いただいた命をできる限り生かそうとしています。
その姿勢には、単に肉を無駄にしないということを超えた、何かがあるように思えるのです。命を奪わなければならないことと、その命を粗末にしていいことは、決して同じではありません。
では、捕獲したシカやイノシシをジビエとして利用することは、どこまで可能なのでしょうか。そして、命を無駄にしないという願いは、現実の社会でどこまで実現できるのでしょう。次は、その理想と現実の間にある問題を考えてみたいと思います。
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ジビエにすれば、命を無駄にしないことになるの?
捕獲されたシカやイノシシの肉を、食材として利用する「ジビエ」。近年では、レストランのメニューや地域の特産品として見かける機会も増えました。野生動物の肉ならではの風味を楽しめるだけでなく、農作物を守るために捕獲された命を無駄にしない取り組みとしても注目されています。
けれど、ここで少し立ち止まって考えてみたいのです。ジビエとして食べれば、その命は無駄にならなかったと言えるのでしょうか。もちろん、食べることには大切な意味があります。私自身、北海道の猟師さんからエゾシカの肉を取り寄せ、すき焼きにして食べたことがあります。
牛肉とは少し違う、野性味のある味わい。見た目には脂が少ないようでも、焼いてみると意外に脂が出てきて、その独特の匂いが数日間、部屋に残っていたことを覚えています。一方、丹沢で捕獲されたシカの肉を食べたときには、もっと淡白で、脂も少なく感じられました。同じシカ肉でも、これほど違うものなのかと驚いたものです。
ただ、おいしく食べられる肉になるまでには、捕獲したあとの適切な処理が欠かせません。野生動物は、家畜のように管理された環境で育てられているわけではありません。捕獲時の状態や、その後の処理、運搬、衛生管理によって、食肉として利用できるかどうかが左右されます。
また、野生鳥獣の肉には食中毒や寄生虫などのリスクもあるため、十分な加熱が必要です。NHK『Dearにっぽん』に登場する古田洋隆さんが、血抜きなどの技術を長年追求してきたのも、捕獲した命をできる限り良い状態で食肉として生かすためなのでしょう。
しかし、技術があればすべて解決するわけではありません。食肉処理施設の整備や維持、衛生管理、冷蔵・冷凍設備、流通には少なくない費用がかかります。しかも、野生動物は必要なときに必要な数だけ捕獲できるとは限りません。
命を無駄にしたくないという思いがあっても、事業として続けられなければ、その仕組み自体が失われてしまうのです。だからこそ、ジビエを商品として販売し、適正な利益を得ることも必要なのでしょう。けれど、ここにはもうひとつ、考えておきたい問題があります。
もし、農作物を守るために捕獲した動物を食肉として利用することが、いつの間にか「高く売れるから捕獲する」という目的に変わってしまったら、どうでしょうか。食肉を目的とした適法な狩猟にも意味があります。ただ、被害を防ぐための捕獲と、商品を得るための狩猟は、その目的を混同すべきではありません。
「命を無駄にしない」という言葉が、いつの間にか「命を商品にする」ことの言い訳になってはいないでしょうか。もちろん、ジビエを食べることも、販売することも、それ自体が悪いわけではありません。けれど、「食べてあげれば供養になる」という言葉だけで、命を奪うことへの問いを終わらせてしまうのも、どこか違う気がするのです。
捕獲した動物の中には、衛生上の理由などから、どうしても食肉として利用できないものもあります。その命は、食べられなかったからといって、すべて無駄だったのでしょうか。農作物や森林を守るために必要だった捕獲にも、意味はあったはずです。
命を大切にすることは、必ずしもすべての命を食べることではない。むしろ、命を奪う必要が本当にあるのかを考え、奪った命には最後まで責任を持とうとすること。そこにこそ、命を無駄にしないという言葉の本当の重さがあるのかもしれません。
そして、その姿勢を次の世代に伝えようとしている父と娘がいます。50年以上にわたってわな猟を続けてきた古田さんと、弟子としてその背中を追う娘の愛さん。ふたりが受け継ごうとしているものは、獲物を捕らえる技術だけではないようです。
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父から娘へ、受け継がれるのは「わな」だけなの?
三重県の山あいで、50年以上にわたってわな猟を続けてきた古田洋隆さん。動物の習性を知り尽くし、足跡や通り道を見極め、独自のわなを使って獲物を捕らえる。その腕前から「伝説の猟師」と呼ばれています。年間600頭ものシカなどを捕獲した実績があるというのですから、その技術には驚かされます。
けれど、古田さんが長い年月をかけて磨いてきたのは、獲物を捕まえる技術だけではありません。捕獲した動物の血抜きなどにもこだわり、いただいた命をできる限り生かそうとしてきました。
「頂く命を無駄にせず、生かし切る」
その言葉には、半世紀以上、野生動物の命と向き合ってきた人だからこその重みがあるように思えます。そんな父のもとに、娘の愛さんが弟子入りしました。父が長年培ってきた技術を学び、その仕事を受け継ごうとしているのです。
しかし、わな猟は、ただ道具の使い方を覚えればできる仕事ではありません。野生動物の行動を読み、自然の小さな変化に気づき、経験を重ねながら判断する。その技術の多くは、長い年月の中で身につけられてきたものでしょう。
そして、もうひとつ。獲物を捕らえたあと、その命にどう向き合うのか。それは、わなの仕掛け方以上に、教えることが難しいものなのかもしれません。
農作物を守るためには、動物を捕獲しなければならないことがあります。けれど、捕獲する必要があるからといって、その命を軽く扱っていいわけではありません。反対に、命を大切に思うからといって、すべての動物を捕獲せずに済ませられるわけでもありません。その矛盾を抱えながら、古田さんは猟を続けてきたのでしょう。
娘の愛さんが受け継ごうとしているのは、単に獲物を捕まえるための技術ではなく、そうした矛盾から目をそらさない姿勢なのかもしれません。命を奪うことに慣れるのではなく、命と向き合うことを忘れない。それは、言葉だけで簡単に教えられるものではないのでしょう。
父が何を大切にしているのか。捕獲した動物を、どのように扱うのか。その一つひとつを見つめながら、娘は少しずつ、自分なりの答えを見つけていくのかもしれません。
そして、いつか父の手を離れ、ひとりで山に入る日が来たとき。愛さんが受け継いだものは、わなの技術だけではなかったと気づくのではないでしょうか。奪った命に、最後まで責任を持つこと。それが、古田さんが娘に残そうとしている、何より大切なものなのかもしれません。
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まとめ|「いただきます」の、その向こうに
山で出会えば「かわいい」と微笑み、畑に現れれば「困った」と顔をしかめる。かつては守るべき存在だったシカが、今では農作物や森林を守るために捕獲されることもあります。
けれど、シカ自身は何も変わっていません。ただ、生きるために草を食べ、山を歩き、ときには人里へ下りてくる。その命を「守るべきもの」にするのも、「有害なもの」にするのも、人間の事情なのです。
では、暮らしを守るために奪わなければならなかった命に、私たちはどう向き合えばいいのでしょうか。食べれば、その命は報われるのでしょうか。食べられなければ、無駄になってしまうのでしょうか。きっと、そんなに簡単な答えはないのだと思います。
三重県で長年わな猟を続けてきた古田洋隆さんと、その技術と心を受け継ごうとする娘の愛さん。父から娘へと伝えられようとしているのは、獲物を捕らえる方法だけではありません。
奪った命に、最後まで責任を持つこと。
その姿勢は、猟師だけに求められるものではないのかもしれません。私たちもまた、毎日の食卓で、ほかの命をいただきながら生きています。
スーパーで買った肉も、レストランで食べる料理も、そこに届くまでには、かつて生きていた命がありました。食事の前に、私たちは「いただきます」と言います。それは、ただ食べ始めるための合図ではないのでしょう。
命をいただくことへの感謝であり、その命を粗末にしないという、小さな約束でもあるのだと思います。もちろん、「いただきます」と言ったからといって、命を奪ったという事実が消えるわけではありません。だからこそ、忘れずにいたいのです。
「いただきます」は、命を奪ったことを許してもらうための言葉ではなく、いただいた命への責任を忘れないための言葉なのかもしれません。
今夜も、私たちは食卓につきます。目の前の料理に手を合わせ、いつものように、その言葉を口にする。「いただきます」。そのひと言が、昨日までとはほんの少し違って聞こえたなら…。きっと、古田さん父娘が向き合ってきた命の重さも、私たちの日々の暮らしの中に、静かにつながっていくのでしょう。
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