生け贄は“大切な人”じゃなきゃダメなの?|古代DNAが明かす「失われた文明」の素顔【フロンティア】

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古代文明――。そう聞くと、何千年も昔に栄え、いつの間にか歴史の向こうへ消えてしまった人々を想像します。巨大なピラミッドを築き、星の動きを読み、精密な暦をつくり、複雑な文字まで使っていたマヤ文明も、そんな「失われた文明」のひとつです。

ところが、その歴史をたどってみると少し印象が変わります。マヤ文明は2500年以上にわたって中央アメリカで栄え、いくつもの都市が興亡を繰り返しました。ひとつの帝国が突然現れ、突然消えた――そんな単純な物語ではありません。そして、この文明を調べていると、どうしても気になるものがあります。

「生け贄」です。神様に人間の命を捧げる。現代に生きる私たちには恐ろしく感じられますが、ふと考えてみると、そもそも生け贄とは何なのでしょう。

私には、こんなイメージがありました。自分にとって大切なものを差し出す。それほど大きな犠牲を払うのだから、どうか願いを聞いてください――。

ところが、それならひとつ「?」が浮かびます。戦争で捕らえた人や、自分とは何の関係もない人を捧げたとしたら? その人は、捧げる側にとって“大切な人”ではありません。それでも、生け贄になるのでしょうか。

あるいは――。私たちが最初から、生け贄というものを勘違いしているのでしょうか? 近年、古代DNAの解析によって、遺跡に残された骨から、その人の性別や血縁関係、そして人々のルーツまで見えてくるようになりました。

「生け贄にされた人々」は、いったい誰だったのか。なぜ、その人たちが選ばれたのか。そして彼らが信じていた神々や、精密な暦、巨大都市を築いた世界とは、どんなものだったのでしょう。

今回はNHK『フロンティア』「古代メキシコ 失われた文明の謎」を入口に、古代DNAと最新研究を手がかりにしながら、謎に包まれたマヤ文明をたどります。

生け贄は、“大切な人”じゃなきゃダメなの?一人の人間の骨から、2500年以上続いた文明の「素顔」を探してみましょう。

【放送日:2026年10月9日(金)14:00 -14:59・NHK-BSP4K】
【放送日:2026年10月16日(金)17:00 -18:00・NHK-BS】

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第一章 マヤ文明って、そもそも「いつ」の話なの?

「マヤ文明」と聞いて、どんな風景を思い浮かべるでしょう。ジャングルの中にそびえる巨大なピラミッド。石に刻まれた不思議な文字。星を観測し、精密な暦をつくった人々――。そこまでは知っていても、「ところで、それって何年前の話?」と聞かれると、私は急に自信がなくなります。

学校の世界史では、エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、黄河文明などは年表と一緒に覚えました。ところがマヤやインカとなると、名前は知っているのに、頭の中の年表にうまく置けません。

私自身、以前「インカ帝国展」を見たとき、「あれ? こんなに最近の話だったんだ!」と驚いた記憶があります。そこでまず、マヤ文明を年表の上に置いてみましょう。ただし――。ここでいきなり、ひとつ注意が必要です。

マヤ文明には、「この年に始まって、この年に滅亡しました」と言える一本の歴史がありません。マヤ文化の形成は紀元前までさかのぼり、地域によって時期の区分にも違いがあります。そのなかで、巨大都市や王朝が特に栄えた時代が、およそ西暦250年から900年ごろの「古典期」です。

ティカルやカラクムルなど多数の王国が並び立ち、同盟を結んだり争ったりしていました。つまり、「マヤ帝国」という一つの巨大国家が中央アメリカを支配していたわけではありません。ここで日本の歴史と重ねてみると、少し距離感がつかめます。

西暦250年ごろといえば、日本では弥生時代の終わりから古墳時代へ向かうころ。そして900年ごろなら、すでに平安時代です。古墳がつくられていたころから、平安京に人々が暮らしていたころまで。その長い時間、海の向こうではマヤの都市が栄えていたことになります。

ところが――。900年ごろになったら、マヤ人が消えてしまったわけではありません。古典期の終わりごろ、中央低地では王朝が次々と崩れ、多くの都市が放棄されました。しかし北部などでは、その後もマヤの都市や政治勢力が存続します。1000年代、1200年代、1400年代になってもマヤ社会は続いていました。

そして16世紀。ヨーロッパからスペイン人がやって来たときにも、そこにはマヤの人々がいました。スペインによる征服は1520年代から各地で進められますが、それも「マヤ文明が900年ごろ突然消滅した」という物語とはまったく違います。

こうして見ると、「マヤ文明はいつの話?」という簡単そうな質問にさえ、「どのマヤの話?」と聞き返したくなってきます。

2500年以上という長い時間。広大な地域。そして、一つではない都市と王国。もしかすると私たちは最初から、マヤ文明を「突然現れ、謎を残して消えた古代文明」としてひとまとめにしすぎていたのかもしれません。

では――、それほど長い時間を中央アメリカで生きてきた人々は、そもそもどこから来たのでしょう? その問いに、いま意外なものが答え始めています。古代人の骨に残されたDNAです。

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第二章 マヤ人は、いったいどこから来たの?

マヤ文明とインカ文明。どちらも「古代アメリカ文明」として一緒に紹介されることがありますが、地図を開いてみると、ずいぶん離れています。

マヤ文明が栄えたのは、現在のメキシコ南東部からグアテマラ、ベリーズなどに広がるメソアメリカ。一方、マチュピチュで知られるインカ帝国の中心は、そこからはるか南、現在のペルーを中心としたアンデス地方です。

時代も同じではありません。マヤの巨大都市が特に栄えた古典期がおよそ西暦250〜900年なのに対し、インカ帝国が急速に勢力を広げたのは15世紀。つまり、マヤ人が南へ移動してインカ人になった――という関係ではありません。

では、マヤ人はいったいどこから来たのでしょう。ここで時計を、マヤ文明が栄える時代よりもはるか昔へ巻き戻してみます。舞台は現在のベリーズ。研究者たちは、この地域の岩陰遺跡に残されていた、およそ9600〜3700年前の人々の骨から古代DNAを調べました。

すると、意外なことが見えてきました。およそ9600〜7300年前に暮らしていた人々と、その後この地域で暮らした人々では、遺伝的な構成が同じではなかったのです。

研究によれば、およそ5600年前以降の人々には、それ以前からこの地域にいた人々につながる祖先成分だけでなく、現在のコスタリカからコロンビア周辺に暮らすチブチャ語族の人々と近縁な集団につながる祖先成分が大きく加わっていました。

つまり、マヤ文明が成立するよりずっと前に、南から北へ、人々が移動してきたらしい。しかも、その新たな祖先成分は、後の人々の半分以上を占めるほど大きな影響を残していました。

ただし、「5600年前、南米から大集団がドーン!とやって来ました」と考えるのも早そうです。研究者たちは、少人数の集団による移動や交流が積み重なった可能性も指摘しています。

そして、ここでもう一つ興味深いことがあります。この南からの人々の移動が確認されるころ、この地域では森林を切り開き、トウモロコシを栽培した痕跡も明確になってくるのです。

人が移動した。知識も移動した。食べ物も移動した。それらが長い時間をかけて混ざり合い、後に私たちが**「マヤ文明」**と呼ぶ社会へつながっていったのかもしれません。

だから、「マヤ人はどこから来たの?」という問いにも、「ここから来ました」と地図の一点を指して答えることはできないんですね。そこが”ゲルマン人の大移動”と異なるところです(笑) 何千年もの移動と交流を経て、その土地に暮らした人々からマヤ社会が形づくられていった。

そして古代DNAは、さらに驚くようなことを教えてくれています。2024年、マヤの代表的な都市チチェン・イツァで見つかった64人の子どもの古代DNAを解析した研究が『Nature』に発表されました。そこで現代の周辺地域に暮らすマヤの人々と比較すると、古代チチェン・イツァの人々との長期的な遺伝的連続性が確認されたのです。

これって、今回の記事ではものすごく大切なことだと思います。私たちは「失われたマヤ文明」と聞くと、文明が栄える→何かが起きる→人々が消える→遺跡だけがジャングルに残るという物語を、つい頭の中につくってしまいます。

でもDNAが示しているのは、そんな単純な「消滅」ではありません。古代マヤの人々につながる遺伝的な歴史は、現在その地域に暮らす人々にも受け継がれている。そう考えると、「失われた文明」という言葉の見え方も少し変わってきます。

失われた都市はある。途絶えた王朝もある。読めなくなった文字もあった。けれど――人まで、すべて消えてしまったわけではない。

そして、この古代DNAはもう一つ、とても不思議な事実を明らかにしました。チチェン・イツァで調べられた64人。彼らは全員、子どもでした。しかもDNAを調べると、全員が男児で、近い血縁関係にある子どもたちが何組も含まれ、そこには一卵性双生児が2組もいました。

偶然なのでしょうか。それとも、彼らは何らかの理由で「選ばれた」のでしょうか。そして――。その子どもたちは、誰かにとって“大切な人”ではなかったのでしょうか? ここから、今回のいちばん大きな「?」へ進みます。

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第三章 生け贄は、“大切な人”じゃなきゃダメなの?

「生け贄」と聞いたとき、私はずっと、こんなものを想像していました。自分にとって大切なものを神様に差し出す。大切なものを失うという大きな犠牲を払うのだから、どうか雨を降らせてください。豊作にしてください。災いから守ってください――。そんな「願い」と「犠牲」の交換です。

でも、少し考えてみるとおかしなことがあります。もし、生け贄になるのが戦争で捕らえた敵だったら? 捧げる側にとって、その人は必ずしも「大切な人」ではありません。では、生け贄とは、“自分の大切なもの”でなくてもよかったのでしょうか?

その疑問を抱えたまま、前の章で触れたチチェン・イツァの子どもたちに戻ってみましょう。1967年、チチェン・イツァの「聖なる泉(セノーテ)」に近い場所で、地下貯水槽として使われていたチュルトゥンから、100人を超える子どもの遺骨が発見されました。

そのうち64人について古代DNAを解析した研究が、2024年に科学誌『Nature』で発表されています。そこで分かったことは、驚くべきものでした。調べられた64人は、全員男の子でした。さらに16人、つまり4人に1人には、同じ場所に埋葬された子どもの中に近い血縁者がいました。

そして――一卵性双生児が、2組いたのです。これは偶然なのでしょうか。一卵性双生児が生まれる割合を考えると、研究チームは偶然だけでは説明しにくいとみています。しかも血縁関係にある子どもたちは、食べていたものもよく似ていて、亡くなった年齢も近かったことから、兄弟や双子が同じ儀礼で一緒に捧げられた可能性が指摘されています。

ここで、マヤの神話が顔を出します。マヤの聖典『ポポル・ヴフ』には、「英雄双子」と呼ばれる双子たちをめぐる物語があります。そこでは死と生、犠牲と復活が繰り返されます。

研究者たちは、地下空間がマヤ世界で冥界への入口と結びついていたことも踏まえ、チチェン・イツァで双子や血縁者が選ばれたことが、こうした神話的世界を反映している可能性を指摘しています。

ただし、「双子だったから殺された」と断定できるわけではありません。古代DNAが教えてくれたのは、そこに偶然とは考えにくい選択があった可能性です。

そして、もう一つ重要なことがあります。DNAの比較から、この子どもたちは遠くから連れてこられた集団というより、周辺の古代マヤ社会から選ばれた可能性が示されています。すると、「捕まえてきた見知らぬ敵を神に捧げた」というだけでは説明できません。

同じ地域で暮らしていた男の子たち。兄弟。そして双子。当然ながらDNAから、「この子を誰かがどれほど愛していたか」までは分かりません。でも、少なくとも彼らは「生け贄」という名前だけを持った人間ではありませんでした。

一緒に食事をした家族がいたかもしれない。兄弟で遊んだ日があったかもしれない。誰かに名前を呼ばれていたはずです。ここまで来ると、最初の問いが少し変わってきます。生け贄は、“大切な人”じゃなきゃダメなの?もしかすると――「大切だから捧げた」こと自体が、生け贄の本質ではなかったのかもしれません。

古代マヤの宗教世界では、人間は神々や祖先から世界や生命を与えられ、その恩恵に対して義務を負っているという考え方がありました。だから王や貴族自身が、自らの身体を傷つけて血を捧げることもありました。

一方では、捕虜が儀礼の犠牲になることもありました。そしてチチェン・イツァでは、血縁関係にある子どもたちまで選ばれていた可能性が見えてきたのです。

つまり、自分が大切にしているものを差し出す。というより、神々や世界に対して負っているものを、人間の側から返す。そのために、自分自身の血であったり、捕虜であったり、特別な意味を持つ人間であったりした――。

そんな世界観だったのかもしれません。古代マヤの供犠研究でも、人間には神々や祖先などに対する「義務」があり、自らの血肉、あるいは代理となる存在によってそれを果たすという考え方が重要だったとされています。

そう考えると、生け贄は単なる、「これだけ大切なものをあげるから、願いをかなえてください」ではなくなってきます。むしろ、「この世界が続いていくために、人間も果たさなければならない役割がある」という感覚に近かったのでしょうか。

私たちには恐ろしく見えるその行為を、マヤの人々自身はどのように理解していたのか。その答えを探すには、彼らが見上げていた空を見なければならないのかもしれません。太陽。月。星。雨…。そして、それらの動きを驚くほど正確に刻んだ暦。次は、生け贄だけを切り離して眺めるのではなく、その背後にあった世界へ進んでみましょう。

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第四章 マヤ人は、なぜそこまで神様を信じたの?

神社へ行けば、私たちも神様にお願いします。「試験に合格しますように」「病気が治りますように」「いいご縁がありますように」とお賽銭を投入れて祈ります。もちろん本来のお参りは単純な売買ではありませんが、現代に暮らす私たちには、どこか、お願いする→何かを差し出す→願いをかなえてもらうという感覚があります。

だから「生け贄」と聞いたときにも、大切なものを差し出すから、その代わりに願いをかなえてくださいという交換を想像してしまうのかもしれません。

でも前の章で見えてきたマヤの世界は、少し違いました。人間は神々にお願いするだけの存在ではない。世界を動かし続けるために、人間の側にも果たすべき役割がある。だとしたら――。なぜマヤの人々は、そこまで強く「神々が世界を動かしている」と考えたのでしょう。

その答えの一つは、彼らの暮らしていた自然にありそうです。マヤの人々にとって、雨は単なる天気ではありません。雨が降らなければ、トウモロコシが育たない。トウモロコシが育たなければ、人間は生きられない。太陽が昇り、季節が巡り、雨が降る。その繰り返しこそが、人間の命を支えていました。

だから彼らは、空を見ました。太陽を見ました。月を見ました。星を見ました。そして、その動きを驚くほど丹念に記録していきます。

マヤ文明では複数の暦が使われました。日常や農耕などに関係する365日の暦と、儀礼や占いに深く関わる260日の暦。二つの周期は組み合わされ、約52年で同じ組み合わせへ戻ります。さらに長い年月を記録する「長期暦」も発達しました。

ここで面白いのは、「天文学が発達していた=現代科学に近づいていた」と考えると、少し違って見えることです。私たちは星を観測して、「宇宙はどういう仕組みで動いているのだろう?」と考えます。

マヤの人々も天体を非常に精密に観測しました。でも、その知識は宗教や政治、儀礼と切り離されたものではありませんでした。

いつ儀礼を行うのか。いつ王が行動するのか。その日は吉なのか。神々はいま何を求めているのか。空を読むことは、世界の秩序を読むことでもあったのです。

ここで少し、日本の昔を思い出してみます。古代の日本にも、鹿などの骨を焼き、できた亀裂から神意や吉凶を読み取る太占(ふとまに)と呼ばれる占いがありました。『魏志倭人伝』に登場する卑弥呼も、「鬼道」によって人々をまとめたと記されています。

もちろん、古代日本とマヤ文明を同じ宗教観だったと考えることはできません。それでも、「人間だけでは決められないことを、人間以外の存在に尋ねる」という感覚なら、少し想像できるのではないでしょうか。

現代なら天気予報を見ます。雨雲レーダーを見る。気象衛星の画像を見る。農業なら気温や降水量のデータを調べる。でも、それでも私たちは雨を降らせることはできません。まして巨大な都市を築いた古代マヤの人々にとって、雨が来るかどうかは文字どおり生死を左右しました。

だから、神を信じていたから自然を観察しなかったのではありません。むしろ逆だったのかもしれません。自然を徹底的に観察した。それでも、人間にはどうすることもできないものが残った。そこに神々がいた。そう考えると、精密な暦と生け贄が、まったく別の話ではなくなってきます。

星を観測することも、暦をつくることも、儀礼を行うことも、血を捧げることも…。すべては、「世界が明日も正しく動き続けるために、人間は何をすべきなのか」という一つの問いにつながっていたのかもしれません。

ところが――。どれほど星を読み、暦をつくり、神々に祈っても、人間にはどうすることもできない出来事が起こります。雨が、降らない。一年だけではありません。長い間、雨の少ない時期が続いたら、巨大な都市に暮らす人々はどうなるのでしょう。そして、それこそが「失われた文明」という今回のもう一つの謎につながっていきます。

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最終章 マヤ文明は、本当に「失われた」の?

星を読みました。暦をつくりました。雨をもたらす神々に祈りました。そして、人間の側にも世界を維持するための役割があると考え、儀礼を繰り返しました。それでも――。雨は、人間の都合に合わせて降ってはくれません。

マヤ文明が大きく揺らいだ8〜10世紀ごろ。古気候学の研究から、この時代のマヤ低地では深刻な干ばつが繰り返されていたことが分かってきました。洞窟で成長した鍾乳石や湖底の堆積物などには、当時の雨の記録が残されています。しかも近年の研究から見えてきたのは、単純に、「雨の量が減った」だけではありませんでした。

「今年の雨季は、いつ、どれくらい雨が降るのか」

その予測そのものが難しくなっていた可能性があるのです。ベリーズの洞窟に残された気候記録を分析した研究では、700〜800年ごろの深刻な干ばつとともに季節降雨の予測可能性が低下し、それが社会の不安定化に寄与した可能性が示されています。

これは、農業にとって大きな問題です。毎年少ないと分かっているなら、それに合わせた作物の育て方を考えることもできるでしょう。

ところが、去年はこの時期に降った。今年もそろそろ降るはずだ。……降らない。となれば、種をまく時期さえ難しくなります。そしてマヤの巨大都市を支えていたのは、多くの人々を養う農業でした。雨が不安定になる。収穫が減る。食料が不足する。人口の多い都市を維持することが難しくなる。そこへ政治的な対立や戦争、社会的不安などが重なっていく。

だから、干ばつ→マヤ文明滅亡という一本の矢印ではありません。むしろ自然環境の変化が、すでに社会の中にあったさまざまな問題をさらに大きくしていった――と考えたほうが近そうです。研究でも、古典期マヤ社会の崩壊を干ばつだけで説明することには慎重な見方があります。

やがて南部低地を中心に王朝が次々と姿を消し、石碑に刻まれる王たちの記録も途絶えていきます。巨大な都市から、人が離れていきました。ここまで聞けば、「それでマヤ文明は滅亡したんだ」と思いたくなります。でも――。この記事の最初を思い出してみてください。マヤ人は、そこで消えてしまったわけではありません。

古典期の都市が衰退したあとも、別の地域ではマヤの都市や社会が続きました。チチェン・イツァが大きく発展したのも、むしろ多くの古典期都市が政治的に崩壊していく時代と重なっています。さらに時代が下って、スペイン人がアメリカ大陸へやって来たときにも、マヤの人々はそこにいました。そして――。現在もいます。

第二章で見たチチェン・イツァの古代DNA研究では、古代の人々と現在その周辺に暮らすマヤの人々との間に、長期的な遺伝的連続性が確認されています。そうなると、「失われた文明」という言葉が、少し不思議に聞こえてきませんか。

失われた王朝はあります。放棄された都市もあります。途絶えてしまった政治体制もあります。けれど、人まで、すべて消えてしまったわけではありません。

今回、古代DNAを通して出会った64人の子どもたちも、最初は「生け贄にされた古代人」でした。ところが調べていくと、男の子だった。兄弟がいた。双子がいた。同じ地域で暮らしていた人々とのつながりがあった。そして、その地域には現在もマヤの人々が暮らしています。

古代DNAが明らかにしたのは、「失われた文明」の謎だけではなかったのかもしれません。「失われた」と思っていた人々を、もう一度、一人の人間として見つめ直すこと。それもまた、最新科学が私たちに見せてくれたマヤ文明の「素顔」なのでしょう。そして最初の問いへ戻ります。

生け贄は、“大切な人”じゃなきゃダメなの?

旅を始めたとき、私は、「大切なものを神様に差し出すから、願いをかなえてもらう」ことが生け贄なのだと思っていました。でも、マヤの世界をたどってみると、その考え方だけでは説明できませんでした。

人間は神々から一方的に何かをもらう存在ではない。世界が続いていくために、人間の側にも果たすべき役割がある。そんな世界観の中に、暦も、天文学も、祈りも、そして私たちには恐ろしく見える供犠もあったのかもしれません。

その世界を支えていた都市や王朝は、やがて衰退しました。けれど、人は残った。つながりも残った。そして何百年、何千年という時間を越えて、その痕跡がDNAの中から再び姿を現した。

そう考えると――。マヤ文明は「失われた文明」なのではなく、私たちが長いあいだ、その続きを見つけられずにいただけなのかもしれません。


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