茶道には、正直なところ、あまり縁がない。作法も流派も知らないし、正座も得意じゃない。それでもなぜか、家には抹茶と茶筅がある。使いこなしているわけでもないのに、捨てる気にもならず、棚の奥で静かに待っている。
最近、高校時代の後輩が、今も茶の湯を続けていると聞いた。花を生け、着物を自分で着つけ、お茶を点てる。話を聞くだけで、不思議と心に余白が生まれるような気がした。なぜだろう。茶の湯は、どうして人をやさしくするのだろうか?
今回の「人生の楽園」は、岡山県倉敷市・玉島で、懐石料理とお茶でもてなす“お茶事(ちゃじ)”の店「もてなし庵」を営む夫婦の物語だ。そこにあったのは、難しい作法でも、敷居の高さでもなく、静かな時間と、人と向き合う姿勢だった。
【放送日:2026年1月31日(土)18:00 -18:30・テレビ朝日】
北前船の町・玉島に息づく「茶の湯の時間」
倉敷市玉島は、かつて北前船の寄港地として栄えた町だ。日本海と瀬戸内海を結ぶ海運の要所として、人と物、そして情報が行き交っていた。
商人たちが集い、取引を交わすこの町には、相手を迎え、話を整えるための“場”が必要だった。そこで育まれたのが、茶の湯の文化だったという。最盛期には、玉島に四百もの茶室があったとも言われている。
それは、特別な人だけの嗜みではなく、町の日常に溶け込んだ「時間の使い方」だったのだろう。茶を点て、器を愛で、言葉を急がない。相手と向き合うために、あえて間をつくる。
玉島の茶の湯は、格式よりも実用から生まれた、人と人をつなぐための知恵だった。そんな町の記憶が、今も静かに残る玉島で、ひと組の夫婦が「お茶事」というかたちで、この土地の時間をもう一度すくい上げようとしている。
<広告の下に続きます>
器が好き、料理が好き── 一人の趣味が茶事になった
佐藤和正さんは、もともと器が好きだった。独身時代から、蚤の市や骨董市を巡っては、陶磁器を手に取り、家で静かに眺めていたという。使うためというより、まずは「眺めるため」。
土の質感や釉薬の表情、手に取ったときの重さ。器そのものが持つ時間に、自然と心を預けていたのだろう。やがて、その器への愛情は、茶の湯へとつながっていく。
お茶を点てると、器は“見るもの”から“使うもの”へと変わる。けれど、使うからこそ、より深く愛でるようになる。もう一つ、和正さんには大切な趣味があった。それが、料理だ。
仕事で多くの部下を抱えたとき、上司から「部下の気持ちを知るには、胃袋を掴め」と助言を受けた。その言葉をきっかけに、自宅に部下を招き、手料理を振る舞うようになったという。
誰かのために料理をつくり、同じ器に盛りつけ、同じ卓を囲む。器と料理。どちらも、ひとりでは完結しない“楽しみ”だった。
定年後、妻の佳美さんの希望で玉島に移り住んだとき、北前船の町に根づく茶の湯の文化を知り、和正さんの中で、点と点が静かにつながった。「そうだ。ここで、料理とお茶を生かした“お茶事”をやろう」
好きだったものが、人生の後半で、ひとつのかたちになる。それは、気負いでも野心でもなく、長い時間をかけて温められてきた、自然な流れだった。
<広告の下に続きます>
4時間を2時間にした理由──肩肘張らないお茶事
本来のお茶事は、四時間以上かけて行われる。懐石料理をいただき、酒を酌み交わし、間を取り、場を整え、最後に濃茶を味わう。
流れにはすべて意味があり、一つひとつが、千利休の時代から受け継がれてきた型だ。けれど佐藤和正さんは、その時間を二時間ほどに整えた。省略したわけではない。ほどいたのだ。
初めての人でも、緊張しすぎず、作法に追われることなく、料理と器とお茶を、ちゃんと味わえるように。
「気軽に親しんでほしいんです」
その言葉は、伝統を軽く扱う響きではなく、むしろ、深く大切にしている人の声に聞こえた。茶の湯は、もともと人と人が向き合うための時間だった。格式は、相手を遠ざけるためのものではない。
だからこそ和正さんは、現代の暮らしに合う“間”を選び取ったのだろう。完璧に整えられた円よりも、少し歪んだ湯呑に宿る温もり。そこに、今の私たちが受け取れる茶の湯がある。
四時間かけることが正解なのではない。二時間であっても、人の心にちゃんと届くなら、それでいい。「肩肘張らないお茶事」は、形式を壊したのではなく、本来のやさしさを取り戻した時間だった。
<広告の下に続きます>
おもてなしは技術じゃなく、向き合う姿勢だった
「おもてなし」という言葉は、ときどき難しく語られすぎる。完璧な段取り、洗練された所作、失敗のない進行。けれど「もてなし庵」で流れている空気は、そうした技術の誇示とは、少し違っていた。
そこにあったのは、目の前の相手をよく見ること。無理をさせていないか、緊張していないか、今、この人は何を心地よいと感じているのか。
佐藤和正さんの隣には、いつも妻の佳美さんがいる。派手に前に出るわけではないけれど、場の温度を整え、会話の隙間をやさしく埋めていく。二人で向き合っているのは、「どう見せるか」ではなく、「どう過ごしてもらうか」だ。
それは、最近の飲み会の感覚にも、どこか似ている。長く飲むことよりも、相手が安心して話せたかどうか。楽しかった、また会いたいと思ってもらえたか。
お茶事もまた、時間の長さを競うものではない。心がほどけるかどうか、その一点に、静かに集中している。技術は、あとからついてくる。まず必要なのは、相手と向き合おうとする姿勢だけ。「もてなし庵」で交わされているのは、特別な作法ではなく、そんな当たり前で、でも忘れがちな気持ちだった。
<広告の下に続きます>
結び|なぜ、茶の湯は人をやさしくするのか
茶の湯は、何かを教え諭すものではない。正解を示したり、技を競ったりする場でもない。ただ、人と人が向き合い、同じ時間を静かに分かち合うための器だ。花を生け、器を選び、料理を整え、お茶を点てる。その一つひとつは、相手のためであり、同時に、自分の心を落ち着かせる行為でもある。
佐藤和正さんと佳美さんが営む「もてなし庵」には、無理に背伸びをしないやさしさがあった。四時間を二時間にほどき、作法よりも空気を、形式よりも気配りを大切にする。そこには、「ちゃんと向き合えば、それでいい」という、静かな覚悟がある。
茶の湯が人をやさしくするのは、特別な知識や技術があるからではない。相手を思い、自分のペースを少し緩め、同じ時間に身を置くからだ。
茶道に詳しくなくてもいい。正座が苦手でもかまわない。それでも、なぜか家に抹茶と茶筅がある。きっとそれは、私たちのどこかが、そんな時間を求めているからなのだろう。
倉敷・玉島の町に息づく茶の湯は、今も静かに、人と人をつないでいる。やさしさとは、こうして受け継がれていくものなのかもしれない。