「有機」「無添加」「自然に優しい」「持続可能」――。
最近のテレビや新聞を見ていると、こうした“良さそうな言葉”でまとめられた農業の特集がやたら増えた気がします。それ自体は歓迎すべきことですが、どこか“話が綺麗すぎる”とも感じてしまうのです。
今日はその違和感について、ボクではなく――うちの猫に語ってもらおうと思います。
(※以下、当家の哲学猫による証言)
🐾有機農業って「キレイごと」で語られすぎじゃニャい?
またテレビが「自然に優しい若手農家が〜」とか言ってるニャ。人間って、そういう“よさそうな言葉”を聞くと条件反射で拍手するよね。ちゃんと中身を考える前に「有機」「SDGs」「持続可能」って言葉だけで満足してるニャ?
うちのご主人もそう。僕には「無添加の有機おやつ」をくれるくせに、自分の朝ごはんは菓子パン一個。「体にいいものを食べたい」じゃなくて、ただ「いいことしてる気分」を味わいたいだけなんじゃないかニャ?
もちろん、有機農業そのものを否定するつもりはないニャ。でも――土を“有機仕様”に変えるには何年もかかるし、その間は収穫も減るし、補助金も申請書がややこしいのに、テレビではその話はだいたいカットされるんだニャ。「努力の現場」より「感動の結末」のほうが視聴率が取れるからニャ。
だから僕は言いたい。
「有機農業は立派ニャ。でも“キレイな言葉だけ”で語られると、かえって信用できないニャ。」

人間って、自分の健康より“他人(ペット)にどう見られるか”の方が優先らしいニャ。
SNSに“手作り犬ごはん”は載せるけど、自分の晩飯のカップ麺は隠す。
つまり有機は“自分が食べるもの”じゃなくてペットへの“愛情アピールの道具”なんじゃないかニャ?
🐾人間はカップ麺、ペットは無添加有機――この逆転現象ってなんなんだ?
最近の人間社会を観察してると、不思議なことがあるニャ。
飼い主の晩ごはん:カップ麺とレトルトカレー。
その横で食べるペットのごはん:国産無添加・有機ササミ・獣医師監修。
……ねぇ、それ”順番逆じゃない?”😺
いや、僕は猫だから、無添加ごはん大歓迎ニャ。
でも、どうして人間は 「自分には適当でいい」って顔しながら、ペットには「最高の栄養バランス」を求めるのかニャ?しかも、「愛情があるから無添加を選ぶ」って言うけど、SNSに投稿する時だけ手作りごはんを盛り付けるのはなんで?
つまり有機は“栄養素”じゃなくて“愛情アピールの道具”になってないかニャ?
🐾大塚ファームの加工品は「どの人種」に刺さるのか?
結論から言うと――こういう人たちニャ👇
✅タイプ①:自分の昼は菓子パン、ペットの夜は有機ささみ派
✅タイプ②:健康のためじゃなく“罪悪感を消すため”に有機を買う派
✅タイプ③:自分の美容には無頓着なのに“ペットの毛艶”にはうるさい派
大塚ファームの干し芋・ジュース・ペットフードは――
栄養を売る商品ではなく、“愛情を可視化するためのアイテム”ニャ。
🐾「ペットは幸せか?有機は愛か?」という小さな哲学
たまに思うニャ。ペットは本当に幸せか?ってこと。
僕は毎日決まった時間にご飯をもらえるし、雨の日でも風の日でもぬくぬく暮らせる。でもそのかわり――自由に遠くまで歩くことはできないニャ。

自由を選んだ野良猫と、安心を選んだ僕。どっちが幸せなんだろうニャ?
有機ごはんをもらう時も同じニャ。
「これは愛か?それとも“良い飼い主でありたい自分”のための儀式か?」
もちろん、愛じゃないとは言わないニャ。でも、愛は時々、自分の理想像を押しつける形でやってくるからややこしい。

幸せって、何を食べるかじゃなくて、誰と食べるかじゃないかニャ?
干し芋が有機でも添加物まみれでも、一緒に食べられたらそれで十分ってこともあるニャ。(あ、でも僕には無添加のほうをくださいニャ。)
🧑結局 ― 干し芋は誰のための食べ物なのか?
猫の彼が言うように、有機は「栄養のため」だけでなく、「気持ちの整理」のために選ばれているのかもしれない。だからこそ、こう締めくくりたい。
干し芋は――栄養だけじゃなく、愛情や葛藤も一緒に噛みしめる食べ物なのだ。
有機でも、スーパーの3連パックでも、きっとどちらでもいい。でもどうせなら、隣にいる誰かと一緒に食べよう。
僕の隣には猫がいる。今日は僕も同じ皿に干し芋を半分ずつ置いてみた。(猫って干し芋を食べるの?💦)
…硬い。でも、悪くない。