自然写真と聞くと、人はつい「美しい風景」を思い浮かべてしまう。透き通った海、色鮮やかな生きもの、人の手が入っていない、理想の自然。けれど、本当にそこにしか「命」はないのだろうか?
一時は“死の海”とも呼ばれた東京湾。人の暮らしと隣り合い、濁り、汚れ、それでも呼吸を続けてきた海。その場所に、半世紀にわたって潜り続け、ありのままを撮ってきた写真家がいる。
一方で、田んぼや水辺、雑木林——人が関わり続けてきた里山を舞台に、「人も生態系の一部だ」と語りながら、命の循環を見つめてきた写真家がいる。派手な告発も、美化された理想もない。それでも、二人の写真が伝えてくるのは、確かな実感だ。
それでも、ここに命はある。
この番組は、自然を“遠くから眺めるもの”ではなく、すでに足元にある世界として、そっと見つめ直させてくれる。
【放送日:2026年1月27日(火)19:30 -21:00・NHK BSP4K】
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「死の海」と呼ばれた東京湾に、潜り続ける — 水中写真家・中村征夫の半世紀
東京湾と聞いて、多くの人が思い浮かべるのは、工場地帯、船の航路、濁った水。「そんなところに、何がいるというのか」そう思われても、無理はない。
高度経済成長期、東京湾は急速に姿を変えた。埋め立てが進み、排水が流れ込み、一時は“死の海”とさえ呼ばれた。中村征夫さんが、その東京湾に潜り始めたのは、まさにそんな時代だった。
きれいだから撮る。珍しいから撮る。そうではない。身近で、見捨てられかけていた海だからこそ、潜る。中村さんは、東京湾を「再生した自然」として美しく語ることもしない。かといって、悲惨さだけを強調することもしない。ただ、そこにいるものを、そのまま写す。
濁った水の中で、懸命に生きる魚。人工物に身を寄せる生きもの。人の活動の影響を受けながらも、したたかに生き延びる命の姿。それらは、南の島の透明な海とは、まったく違う。けれど、「命がある」という事実に、違いはない。
半世紀。同じ海に潜り続けるということは、変化を見続けるということだ。増えたものもあれば、消えたものもある。良くなった部分も、簡単には戻らない傷もある。
中村征夫さんの写真は、東京湾を美化しない。けれど、決して見下ろしもしない。
「それでも、ここに命はある」
その一言を、言葉ではなく、写真で積み重ねてきた仕事だ。
身近な海だからこそ、目を背けやすい。身近な海だからこそ、見続ける意味がある。東京湾に潜り続けるという行為は、自然を守る運動というよりも、自然と同じ場所に立ち続ける選択なのかもしれない。
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きれいに撮らない、という選択 — 事実を残すことの、静かな強さ
写真を撮る人なら、誰でも一度は思う。
「きれいに撮りたい」
「すごいと言われたい」
「評価されたい」。
それは、決して悪いことではない。むしろ、自然な欲求だ。けれど中村征夫さんは、その欲求を、あえて前に出さない。東京湾を撮るとき、光を足して、美しく見せることもしない。濁りを消して、透明な海のように仕立て直すこともしない。そこにあるものを、そのまま撮って、残す。
それは、何もしないという意味ではない。むしろ逆で、とても意志のいる選択だ。濁った水。人工物。人の活動の影響を受けた生きものたち。それらを「見せない」ほうが、簡単で、褒められやすいこともある。それでも、中村さんは消さない。なぜなら、「こんなことも起きているんだ」という事実を、写真が語る必要があるからだ。
声高に訴えなくてもいい。説明を添えなくてもいい。ただ、そこに置く。見る人が、どう受け取るかは委ねる。不快に思うかもしれないし、見なかったことにしたくなるかもしれない。それでも、写真はそこにあり続ける。
きれいに撮らない、という選択は、諦めではない。妥協でもない。それは、現実と同じ場所に立つ、という覚悟だ。中村征夫さんの写真は、東京湾を糾弾しない。美化もしない。ただ、起きていることを、起きているままに残す。その愚直さの奥に、実は強いメッセージがある。——見なければ、なかったことにできてしまうから。
写真は、問いを突きつける道具ではない。けれど、問いから目を逸らせなくする力を、確かに持っている。
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里山では、人も生態系の一部 — 写真家・今森光彦が見つめてきた風景
里山は、手つかずの自然ではない。人が入り、田を耕し、水を引き、薪を取り、長い時間をかけて形づくられてきた場所だ。今森光彦さんが見つめ続けてきたのは、そんな人の手が加わり続けてきた自然だった。
田んぼのあぜ道。水路の脇。雑木林の縁。そこには、人がいるからこそ生まれた環境があり、そこに適応した生きものたちが暮らしている。
今森さんは、里山を「守るべき原風景」として切り取らない。ましてや、人を排除した理想の自然として描くこともしない。むしろ、人も生態系の一部であるという前提に、静かに立っている。人が水を引くから、生きものが集まる。人が草を刈るから、次の世代が育つ。人が手を入れること自体が、自然を壊す行為ではない。
問題になるのは、関わりを断ち切ってしまうことだ。今森光彦さんの写真に写る里山は、どこか生活の気配がある。完璧に整っていない。でも、確かに循環している。そこに写る生きものたちは、人を恐れすぎず、かといって依存もしない。同じ場所を共有する存在として、淡々と生きている。
今森さんのまなざしは、「自然か、人か」という二択を拒む。自然の中に人を戻し、人の暮らしの中に自然を戻す。それは、懐かしさを誘うための視点ではない。今を生きるための視点だ。
里山は、過去の遺産ではない。人が関わり続ける限り、現在進行形の生態系であり続ける。今森光彦さんの写真は、そのことを、声を張り上げることなく、ただ、そこに置いてみせる。
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二人に共通する「距離の取り方」 — 人は、自然の外側に立っていない
「人間も、自然の一部だ」
その言葉は、きれいごととして語られることも多い。けれど中村征夫さんと今森光彦さんは、その考えをスローガンとして掲げない。ただ、そう振る舞ってきた。
中村さんが潜り続けてきた東京湾は、人の活動と切り離せない海だ。船が行き交い、人工物が沈み、排水の影響も受けてきた。そこに人間の痕跡があるからといって、海が「自然でなくなる」わけではない。
今森さんが見つめてきた里山も同じだ。人が耕し、刈り取り、水を引くことで成り立ってきた環境。人が関わってきたからこそ、多様な生きものが生きる場所になった。二人に共通しているのは、自然を「守る対象」として遠くから眺めないこと。かといって、支配する対象として扱わないこと。
同じ場所に立つ。
それが、二人の距離の取り方だ。自然を上から評価もしない。人間を特別視もしない。ただ、人も、生きものも、同じ環境の中で影響し合っている存在として写す。
里山でも、都会のど真ん中でも、その考え方は変わらない。人がいるから壊れる自然もあれば、人がいるから保たれる自然もある。それを単純に分けてしまうこと自体が、現実から目を逸らす行為なのかもしれない。
二人の写真は、「どうあるべきか」を押しつけない。ただ、「今、どうなっているか」を見せる。
その距離感が、見る側にも問う。自分は、自然のどこに立っているのか。外側から眺めているつもりで、本当はもう中にいるのではないか、と。
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自然は、すでに身近な場所にある — 気づかないだけで、足元に広がっている
自然という言葉を聞くと、人はつい、遠くを思い浮かべてしまう。山奥や、離島や、人の気配が少ない場所。けれど、中村征夫さんの東京湾も、今森光彦さんの里山も、共通して伝えてくるのは、まったく逆の感覚だ。自然は、もうそこにある。特別な場所へ行かなくても、すでに私たちの暮らしと重なっている。
東京湾は、都会のすぐ隣にある海だ。毎日、船が行き交い、人の活動が重なり続けている。それでも、その水の中には、確かに命の営みがある。里山も同じだ。人の生活の延長線上にあり、人の手が加わり続けてきた場所。そこでは、人がいなくなった瞬間に、循環が止まってしまうことすらある。
二人の写真家は、自然を「遠くへ追いやられた存在」として扱わない。むしろ、近すぎて見えなくなっているものとして写す。派手な警鐘は鳴らさない。「守らなければならない」と叫びもしない。ただ、そこにある現実を、丁寧に差し出す。気づくかどうかは、見る側に委ねられている。
自然は、失われたものではない。まだ残っているものでもない。すでに、共にあるものだ。そのことに気づけたとき、世界の見え方は、少しだけ変わる。
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それでも、ここに命はある — 写真が語り終えた、その先で
中村征夫さんが見つめてきた東京湾。今森光彦さんが歩き続けてきた里山。そこは、決して理想化された自然ではない。濁りがあり、人工物があり、人の営みの影が重なっている。それでも。
それでも、ここに命はある。
声高に訴えなくてもいい。答えを用意しなくてもいい。ただ、その事実を、写真は静かに差し出す。見る人は、立ち止まってもいいし、通り過ぎてもいい。何も感じなくてもいい。
けれど一度見てしまえば、もう「なかったこと」にはできない。東京湾の水の奥に、里山のあぜ道の脇に、確かに生きるものがいることを、知ってしまう。この番組が見せてくれるのは、希望でも、絶望でもない。ただ、今も続いている世界だ。
人は自然の外側にいない。すでに中にいて、影響し合いながら生きている。それは、都会でも、海でも、里山でも変わらない。写真展を見終えたあと、外に出るときのように、世界は少しだけ違って見えるかもしれない。足元の水たまり。道ばたの草。港の先に広がる海。
それでも、ここに命はある。そう気づけたなら、この静かな写真展は、きっと役目を果たしたのだと思う。