刺し子ってなに?何に使うの?起源はいつ?どうして大槌町で刺し子が盛んになったのは東日本大震災がキッカケ?【あさイチ】

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こんにちは鳥巣です。5/26のあさイチでは岩手の大槌町から”刺し子”の話題が中継されるようです。レポートしてくれるのは仙台放送局の秘蔵っ子・岩﨑果歩アナです。刺し子の布巾は家にも何枚かありますが、その起源や大槌町でどうして刺し子が盛んになったのか、そのわけを紐解いていきます。

刺し子ってなに?いつ頃からあるの?

「刺し子」とは、布を重ね合わせて細かく刺し縫いし、模様や補強を施す日本の伝統的な手芸です。もともとは防寒や補強のために使われていましたが、現代では、伝統模様を刺して楽しむなど、手芸としても親しまれています。

刺し子は、16世紀初頭の江戸時代に東北地方で生まれたとされていますが、その歴史はもっと古く、飛鳥・奈良時代には行われていたという説もあります。

元々は綿製品が貴重品だったため、それらを長く使うために布を重ねて縫い、強度を増す技法として発達しました。それが衣服の補強などから、綿を重ねることによる防寒などにも使われるようになりました。布を重ねて、糸で細かく刺し縫うことで、布地を丈夫にするとともに、保温効果を高めます。

またそれがやがて豊作、魔除け、商売繁盛などの人々の願いや祈りを込めた装飾として用いられるようになったともいわれています。現代の刺し子の伝統模様は、花ふきんやクッション、バッグなど、身近なアイテムにも取り入れられています。

現代の刺し子(出典:手芸のオリムパス)
現代の刺し子(出典:手芸のオリムパス)

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大槌町で刺し子が盛んになったわけは?

大槌町の刺し子は、2011年に起きた東日本大震災をきっかけにうまれました。地震や津波で家や車、仕事場までもなくなり、多くの人が避難所での生活を強いられました。

そんな避難所での生活では、男の人たちは瓦礫の撤去などの仕事が山積みの一方で、女の人たちにはすることがあまりない状況が続きました。仕事に出ようにも職場も車もなくなり、避難所で何もすることがなく一日を過ごすという、そんな日々が続いていました。

そんなとき、避難所にいたボランティアの吉野さんという若者が、「女の人たちに何かできることを作りたい!」という想いを持って、東京のボランティア仲間に声をかけます。

そこでみんなから出たアイデアが、避難所という限られたスペースで、針と糸、そして布さえあればできる「刺し子」の制作だったわけです。

岩手県の海沿いの町、大槌町で大震災をきっかけにうまれた大槌刺し子は、避難生活を送る女性たちに、針仕事を通じて、もう一度生きる喜びや希望を見つけて欲しいというそんな想いから、5名のボランティアによって、「大槌復興刺し子プロジェクト」として始まりました。

大槌刺し子(出典:no+e)
大槌刺し子(出典:no+e)

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それはやがて、震災を乗り越えて単なる暇潰しではなく、布地の上にひと針、ひと針ほどこすことで、手仕事のぬくもりを伝えていく温かさと、日本の伝統手芸である「刺し子」が受け継いできた、ひと針の可能性を信じて復興への望みを繋いでいくことになりました。

江戸時代には、武家の子女たちの行儀見習いや針仕事の手習い、精神修養として奨励されていた刺し子が、大震災からの復興にも繋がっていったのです。

東北をはじめ各地にみられるようになった刺し子は、母が嫁ぐ娘のために、木綿の布巾に、縁起の良い伝統模様を刺し子で施し、持たせたといいます。婚家の家の門をくぐったら、二度と戻れないといわれていた時代に、母が思いの丈を針仕事に込めて、娘に伝えたといいます。

嫁ぎ先では、異なる模様を刺した”花ふきん”をかけて、家族のお膳を取り違えないようにする役目もあったのだといいます。また、花ふきんを水をくぐらせると、刺し糸の色がうっすらとにじみ出て、白いふきんが淡い刺し糸の色に染まっていくことから、「早く婚家の色に染まりますように」との願いが込められていたそうです。

伝統柄なら、七宝(しっぽう)つなぎなど、意味が込められているものもあります。七宝とは金、銀、瑠璃(るり:艶のある青い宝石、ガラス)、玻璃(はり:水晶のこと)、珊瑚、瑪瑙(めのう)、真珠をあらわします。そうした円を重ねてつなぎ合わせた文様は、永遠、円満、調和をあらわす吉祥文様として用いられてきました。

七宝つなぎ(出典:小鳥屋)
七宝つなぎ(出典:小鳥屋)

刺し子には様々な伝統柄が伝えられていて、特別な技術も必要ないので、私も小学校の家庭科の実習で雑巾を縫った覚えがあります。

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まとめ

刺し子ってなに?いつ頃からあるの?

「刺し子」とは、布を重ね合わせて細かく刺し縫いし、模様や補強を施す日本の伝統的な手芸です。16世紀初頭の江戸時代に東北地方で生まれたとされていますが、その歴史はもっと古く、飛鳥・奈良時代には行われていたという説もあります。元々は綿製品が貴重品だったため、それらを長く使うために布を重ねて縫い、強度を増す技法として発達しました。やがて豊作、魔除け、商売繁盛などの人々の願いや祈りを込めた装飾として用いられるようになったともいわれています。

大槌町で刺し子が盛んになったわけは?

大槌町の刺し子は、2011年に起きた東日本大震災をきっかけにうまれました。地震や津波で家や車、仕事場までもなくなり、多くの人が避難所での生活を強いられました。そんな避難所での生活では、男の人たちは瓦礫の撤去などの仕事が山積みの一方で、女の人たちにはすることがあまりない状況が続きました。そんなときに、避難所にいたボランティアの方が、「女の人たちに何かできることを作りたい!」という想いを持って、みんなにアドバイスしたのが、避難所という限られたスペースで、針と糸、そして布さえあればできる「刺し子」の制作だったわけです。

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