こんにちは鳥巣です。11月11日のブラタモリでは、若狭と京都を結ぶ通称”鯖街道”が特集されます。鯖街道の歴史は番組でも紹介されると思いますが、鯖街道って1つのルートだけじゃないって知っていましたか?なぜ鯖街道がいくつもあったのか?何を運んでいたのかについて調べてみました。
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鯖街道ってなに?
鯖街道とは、若狭の小浜(おばま・福井県小浜市)から京都に至るいくつかの旧街道の総称です。いくつかの街道ということは、鯖街道は一つではなかったということです。
起点と終点はどれも若狭(福井県)の小浜と京都ですが、主なルートだけでも6つほどあったようです。それは若狭街道、西近江路(琵琶湖経由)、針畑越(鞍馬街道)や「西の鯖街道」と呼ばれる雲ヶ畑街道や周山街道などです。
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いくつかの鯖街道
若狭街道
その中でも最大の物流量を誇ったのが「若狭街道」でした。若狭街道は小浜(現在の福井県小浜市)から南西に進み、若狭熊川宿から水坂峠(滋賀県高島市)を経て、保坂、朽木(くつき)を通って、国道367号線沿いに大原から京都へ向かいます。
このルートは、今では国道303号線や国道367号線が通っていて、険しい山道も少なく、女性も比較的楽に通行できたからだと言われています。
針畑越ルート
一方で小浜から京都までを最短距離で結ぶのが「針畑越」ルートです。小浜からすぐに南下して遠敷(おにゅう)ー根来(ねごり)を通るのが針畑越ルートで、若狭街道と比べると距離が短かかったものの、3つの800m級の峠を越えなければならず、道も険しかったようです。ただ今でも旧街道沿いには宿場町が残り、「鯖街道を歩こう」という人たちの宿場になっているようです。
当時は、「京は遠ても十八里」と言われました。18里といえば約72kmですから、一昼夜で70km以上の道のりを歩き通して、京都まで行ったということですね。
現代の私たちは、割と一所懸命に歩いても1日に精々30km歩くのが精一杯ですが、70km以上もある道を、大量の荷物を背負って一昼夜で歩き通すって、昔の人は本当に健脚だったんですね。
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西近江路(淡海路ルート・九里半越え)
小浜から琵琶湖方面に向かい、西近江路という敦賀と京都を結ぶ街道と近江熊川熊川今津で合流します。今津や木津からは海路(琵琶湖)を通って大津に向かうこともできるので、小浜から運んできた荷物は舟運に任せて、商人たちは再び小浜からの荷物を取りに行くことができたわけです。
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もっとも悪天候で琵琶湖が使えなければ陸路で京都まで運ばなければいけませんから、鯖のような生鮮食品には厳しかったかもしれません。
他のルートの鯖街道も、経路は違っても「小浜↔︎京都」という起点と終点は変わりません。運んでいたものも、もちろん「鯖」だけではなく、海産物なら甘鯛(グジ)やイカ、カレイなど日本海で獲れたものも盛んに運ばれていました。
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京都から若狭へは京文化や工芸品が
逆に京都からは、京都の文化や工芸品などが若狭にもたらされ、今でも小浜には北前船でも賑わった茶屋街や、ベンガラ格子や出格子の家が軒を連ね、情緒的で気品を感じる町並みが残っています。
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鯖街道のまとめ
鯖街道ってなに?
鯖街道は、若狭と京都を結ぶいくつかの街道を指します。「若狭街道」や「針畑越え」、「西近江路」や「西の鯖街道」などがありました。塩鯖など、若狭で獲れた海産物を背負って70km以上の距離を一昼夜かけて京都に運んだと言われています。
いくつかの鯖街道
「若狭街道」、「針畑越え」、「西近江路」を簡単に紹介しました。現在でも街道沿いに宿場町が残っているところもあります。また鯖街道を通って京の文化や工芸品が小浜にもたらされました。