冬の青森で出会う、指先の美と太古のまなざし|津軽塗ネイルと“萌え土偶”の旅【あさイチ】

三大丸山遺跡で津軽塗ネイルを見せる女の子 BLOG
津軽塗ネイルの美しさ、土偶に残された、はるか昔の人々の祈りや想像力こそ青森の魅力なのです。
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あさイチの特集で放送される、冬の青森「ときめき探し旅」。
俳優・加藤諒さんが巡るのは、アップルパイの食べ比べ、津軽塗をネイルで楽しむ工芸体験、そして縄文土偶に心を奪われる青森ならではの文化です。
この回は観光地をなぞる旅ではなく、食・工芸・歴史を通して「人はなぜときめくのか」を静かに確かめていく特集。視聴後にもう一度味わいたくなる、冬の青森の魅力を整理していきます。
そんな「ときめき探しの旅」は、青森らしい甘い香りとともに、意外にも一切れのアップルパイから始まります。

アップルパイで始まる、冬の青森のときめき

冬の青森で最初に出会う“ときめき”は、意外にもとても素朴なものです。
専用タクシーに乗り、案内役のコンシェルジュとともに巡るのは、青森市内やその周辺に点在するアップルパイの名店。それぞれの店が誇る一切れには、同じ「りんご菓子」という枠に収まらない個性が息づいています。

ある店は、りんごの酸味を前面に出し、甘さを控えめに。またある店は、シナモンやバターの香りを重ね、デザートとしての幸福感を大切にする。生地の厚み、焼き加減、りんごの切り方――どれもが違い、その違いを比べる時間そのものが、旅の楽しみになっていきます。

この食べ比べに「正解」はありません。一番人気を決めるためでも、優劣をつけるためでもない。ただ、自分の感覚がどこで立ち止まり、どこで心が動くのかを確かめていく。それが、青森のアップルパイを巡る体験の本質です。

りんごの産地として知られる青森では、アップルパイは特別なごちそうであると同時に、日常の延長線上にあるお菓子でもあります。だからこそ、その味には作り手の暮らしや土地の空気が自然と染み込む。一口ごとに感じる違いは、青森という場所の多層性を、やさしく教えてくれるのです。

甘い香りに包まれながら始まるこの旅は、気持ちをふっとほどいてくれます。「ときめき」とは、派手な驚きではなく、こうした小さな違いに心を向けることなのだと――アップルパイは、静かにそう語りかけてきます。

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伝統工芸が“かわいい”に変わる瞬間(津軽塗ネイル)

津軽のものづくりは、目で見る前に、まず“触れた感覚”として心に残ります。指先に伝わる冷たさや、長い時間を経た土の重み。それらは決して声高に語られないけれど、確かに、この土地で生きてきた人の記憶を宿しているのです。

津軽塗と聞くと、重厚な漆器や、代々受け継がれてきた工芸品を思い浮かべる人が多いかもしれません。けれど今、その技と美意識は、意外なかたちで私たちの暮らしに近づいています。それが、津軽塗ネイルです。

幾重にも漆を重ね、研ぎ出すことで生まれる、あの独特の模様。偶然のようでいて、職人の経験と勘に支えられたその表情は、小さな爪の上でも、しっかりと津軽塗らしさを主張します。

指先に宿るのは、「かわいい」や「おしゃれ」だけではありません。長い時間をかけて培われてきた、津軽のものづくりの記憶そのものなのです。

津軽塗のネイルも、縄文の時代から続く土偶も――形や時代は違っていても、どこか同じ温度を持って、今に息づいています。

津軽塗ネイルが印象的なのは、それが単なる「伝統のアレンジ」ではないところです。爪という、ごく小さなキャンバスに施されるのは、本来、器や重箱に込められてきた“使い続けるための美”の思想です。

傷がついても、時を重ねても、それすら表情として受け入れてきた津軽塗の感覚が、指先の世界にも、きちんと受け継がれています。だからこそ、津軽塗ネイルは不思議と落ち着いて見えるのです。

華やかだけれど、騒がしくない。個性的なのに、どこか日常になじむ。それはきっと、「今の自分を飾るため」だけでなく、これからの時間を一緒に過ごすための美しさだからではないでしょうか?

番組の映像の中でも、ネイルを施された指先は、誇らしげでありながら、どこか自然体でした。伝統工芸が“守られるもの”ではなく、暮らしの中で呼吸を始める瞬間が、そこにあったのです。

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なぜ人は土偶にキュンとするのか?(萌え土偶)

指先の小さな美に触れたあと、もうひとつ、津軽で心をつかまれる存在があります。それが、土偶です。丸みを帯びた体つき。どこかとぼけたようで、でも目が離せない表情。何千年も前につくられたとは思えないその姿に、思わず「かわいい」と感じてしまう人は、実は少なくありません。

理屈では説明しきれないのに、なぜか心がきゅっとなる。その感覚は、津軽の厳しい自然の中で生きてきた人々の祈りや、命へのまなざしに、そっと触れてしまったからかもしれません。

特に有名なのが、遮光器土偶(しゃこうきどぐう)です。ゴーグルのように大きな目。人の姿をしているはずなのに、どう見ても“普通”とは言いがたいフォルム。初めて見る人が「宇宙人みたい」と感じてしまうのも、無理はありません。

もしかしたら縄文人は、本当に空から来た何かを見たのでは──そんな想像をしてしまうほど、遮光器土偶は、私たちの常識から少しはみ出しています。もちろん、学術的には雪や強い光から目を守るための装具を表した説や、呪術・祈りの対象とする説が語られてきました。

けれど、それらの説明を知ったうえでも、なお消えない“違和感”が、この土偶には残るのです。そして、その違和感こそが、人の心を惹きつけてやまない理由なのかもしれません。

理解しきれない。意味を断定できない。それでも、なぜか愛おしい。土偶は、「答え」を与えるための存在ではなく、想像する余白を残すためにつくられた存在だったのではないでしょうか。そんなふうに考えると、何千年という時間の向こう側で、縄文人と静かに視線が重なる気がしてくるのです。

土偶に感じる「かわいい」や「萌え」は、実は軽い感情ではありません。顔の造形や、誇張された体つきに、人は無意識に「不完全さ」や「人間らしさ」を見つけてしまうのです。それは、強さや美しさではなく、祈りや願いに近い感情かもしれません。

生きることが今よりずっと厳しかった時代、縄文人は、理想の姿ではなく、不安や弱さを抱えた存在としての“人のかたち”を、土に託したのかもしれません。

だから私たちは、土偶を前にすると、理由もなく心がほどけてしまうのです。それは、はるか昔の誰かが抱いた気持ちと、今の自分の感情が、静かに重なってしまう瞬間なのでしょう。

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加藤諒くんが“旅役”としてちょうどいい理由とは?

津軽塗ネイルや土偶に触れる旅は、知識や解説だけでは、どこか遠くなってしまいがちです。そんな中で、視聴者の感覚に一番近い場所に立っていたのが、俳優・加藤諒くんです。

驚いたり、戸惑ったり、思わず本音が顔に出てしまったり…。加藤諒の旅の仕方には、「正しく理解しよう」とする構えよりも、まず感じてみるという素直さがあります。だからこそ、津軽の工芸や土偶の前に立つ姿が、どこか私たち自身と重なって見えるのでしょう。

詳しすぎない。でも、軽すぎない。その絶妙な距離感が、この旅を“見るもの”から一緒に歩くものへと変えてくれていたのかもしれません。

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まとめ|津軽の旅は、感情の奥にそっと触れてくる

津軽塗ネイルの指先に宿る、長い時間をかけて育まれてきた美しさ。そして、土偶という不思議なかたちに残された、はるか昔の人々の祈りや想像力。

この旅が心に残るのは、それらが「展示物」や「知識」としてではなく、今を生きる私たちの感情と静かにつながっていたからです。

驚いたり、惹かれたり、理由はうまく言葉にできなくても、「なんだか好きだな」と思ってしまう。その素直な気持ちこそが、津軽という土地の魅力なのかもしれません。

雪深い冬の中で受け継がれてきた、人の手の温度と、想いのかたち。それは今も、私たちのすぐそばで、息をしているのです。

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