食彩の王国|丸ごと味わう 茎までおいしいブロッコリーの話

ブロッコリー畑で微笑むまどか BLOG
つぼみだけを切り取る野菜から、茎も、葉も、味わいの一部として受け止める野菜へ。「使える部分」ではなく、「生きている全部」を見る視線へ。
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ブロッコリーというと、つぼみの部分だけを食べる野菜だと思っていた。
でも、台所で向き合っていると気づく。茎も、皮を薄くむけばちゃんと甘い。葉だって、火を通せば驚くほどやわらかい。捨てるところがない。というより、捨てなくていいことを、知っているかどうか。それだけの違いなのかもしれない。

今年、ブロッコリーは国の「指定野菜」に加わる。注目され、語られ、価値づけられていく一方で、この野菜が本当に教えてくれるのは、もっと静かなことだ。

畑でどう育てられ、どんな人の手を経て、どう食べきられていくのか。「丸ごと味わう」という言葉の向こうには、野菜と人との、ちょうどいい距離感がある。

今回の『食彩の王国』は、ブロッコリーを主役にしながら、その背景にある“当たり前の知恵”を、そっとすくい上げていく。

【放送日:2026年1月31日(土)9:30 -9:55・テレビ朝日】

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ブロッコリーは、なぜ「丸ごと」おいしいのか?

ブロッコリーは、つぼみだけを食べる野菜だと思われがちだ。でも実際は、どこを切り取っても、ちゃんと役割と味がある

つぼみは、言うまでもなく甘みとほろ苦さのバランスがいい。火を入れると、青い香りがふっと立ち上がる。茎は、外側の皮を薄くむけば、驚くほどみずみずしくて甘い。繊維はあるけれど、きちんと下処理をすれば、食感はむしろ心地いい。

葉もまた、炒めたりスープにすれば、キャベツとは違うコクが出る。つまりブロッコリーは、「可食部が広い野菜」なのではなく、最初から全部、食べる前提で育っている野菜なのだ。

畑で太陽を受け、寒さに耐えながら育つ過程で、栄養も、うまみも、一本の株に行き渡っていく。だから、つぼみだけを切り取ってしまうと、本当はそこで、味の半分を置いてきてしまっているのかもしれない。

丸ごと味わう、というのは特別な調理法の話ではない。野菜のつくりを、そのまま受け取るということ。この当たり前に立ち返るとき、ブロッコリーは、ぐっと身近で、そして少しだけ、奥行きのある野菜に見えてくる。

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旬のブロッコリーが甘くなる理由

ブロッコリーの旬は、冬。寒さが厳しくなるほど、甘みが増す野菜だ。
気温が下がると、ブロッコリーは自分の体を守るために、糖分を蓄える。凍らないように、傷まないように、ゆっくりと、でも確実に。この“身を守るための甘さ”が、冬のブロッコリーのおいしさの正体だ。

三浦半島や横須賀周辺は、海に囲まれ、冬でも極端に冷え込みすぎない。昼と夜の寒暖差があり、畑にはやわらかな海風が入る。ブロッコリーにとっては、じっくりと味をのせるのに、ちょうどいい環境だ。

朝どれのブロッコリーを手に取ると、色が濃く、芯まで張りがある。切った断面から、じわっと水分がにじむ。それだけで、甘さの準備ができていることがわかる。

旬の野菜がおいしいのは、特別なことをしているからではない。その季節に、無理をしていないからだ。寒い時期に、寒さの中で育つ。その当たり前が、ブロッコリーの味を、いちばん素直にしてくれる。

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“油通し”が引き出す、ブロッコリーの本当の色と甘み

中華料理の世界では、野菜をおいしく仕上げるための基本として「油通し」という下ごしらえがある。といっても、難しいことではない。たっぷりの油で揚げるわけでもなく、高温で一瞬、さっとくぐらせるだけ。それだけで、ブロッコリーの色はぱっと鮮やかに変わり、青臭さが消え、甘みが前に出てくる。

油が表面をコーティングすることで、水分とうまみが中に閉じ込められる。結果、茹でただけのときとはまったく違う表情になる。

もちろん、家庭でプロと同じことを完璧にやるのは難しい。でも、フライパンに少し多めの油を入れて、強めの火でさっと火を通すだけでも、「いつものブロッコリー」とは違う味になる。大事なのは、手順の正確さよりも、野菜の変化をよく見ること

色が変わった瞬間。香りが立ち上がるタイミング。それに気づけるだけで、料理はぐっと楽しくなる。この回で紹介される中華の技は、特別な人のためのものではない。ブロッコリーと、もう少し仲良くなるためのヒントだ。

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畑で伝えたいこと——「つぼみ以外も、おいしい」

ブロ雅農園で子どもたちにまず伝えているのは、栄養の話でも、難しい農法の話でもない。「ブロッコリーは、つぼみ以外もおいしい」という、とてもシンプルなことだ。

畑で収穫したブロッコリーを手にすると、茎は太く、葉はしっかりとしている。それは“おまけ”ではなく、ちゃんと育ってきた体の一部だということが、見ただけでわかる。

たとえば、茎。薄くスライスしてさっと茹でて、マヨネーズに少し醤油を混ぜる。それだけで、甘みがはっきり感じられる。七味唐辛子をパラっとかければ酒の肴にもなる。他にも、
・細めに切ってきんぴら風に炒める
・スープや味噌汁の具にして、だしを吸わせる
・塩だけで軽く蒸して、オリーブオイルをたらす
どれも、特別なレシピじゃない。「いつもの料理に、入れる場所を変える」だけだ。

葉も同じだ。刻んでチャーハンに混ぜたり、油揚げと一緒にさっと煮たりすると、キャベツとは違う、ほろ苦さとコクが出る。

ブロッコリーを育てるブロ雅農園の鈴木さんが畑で伝えたいのは、上手に食べる方法ではない。“最初から全部、食べられるものとして見る”というその視点だ。捨てない工夫というより、捨てる理由が、そもそもなかった。そんな当たり前に、もう一度気づいてもらえたらいい。

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規格の外にある、おいしさの話

「全部食べられる」と知ったとき、次に浮かぶ疑問は、案外シンプルだ。
――じゃあ、どうして捨てられてきたんだろう?

畑で採れたブロッコリーは、味も、栄養も、育った過程も変わらない。それでも、形が少し曲がっていたり、大きさが揃っていなかったりすると、「規格外」という名前がつく。

規格は、本来とても合理的な仕組みだ。運びやすく、詰めやすく、並べやすい。大量に流通させるためには、必要だった。でも、その途中で、「規格=品質」という誤解が、いつの間にか根を張ってしまった。鈴木さんは、そこを責めない。「どちらの考えもありだと思うんです」と、あっさり言う。

きれいな野菜を作るのが誇りの農家もいる。一方で、少し不揃いでも「おいしいから食べてほしい」と考える農家もいる。どちらが正しい、という話ではない。ただひとつ言えるのは、規格の外に出た瞬間、野菜がまずくなるわけではないということだ。

直売所で、背景を聞いて買われた野菜。農業体験で、自分で抜いたブロッコリー。そこには、値段や見た目とは別の“納得”がついてくる。鈴木さんが大事にしているのは、その納得だ。

野菜を作るだけでなく、なぜこう育ったのかを伝えること。それもまた、畑の仕事の一部だと考えている。規格の外にあるのは、欠けた価値ではない。むしろ、まだ言葉になっていない、おいしさなのかもしれない。

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料理人が惚れた、“丸ごとのブロッコリー”

料理人が素材に惚れる瞬間は、見た目が美しいときでも、値段が安いときでもない。それを口にしたとき、「まだ知らなかった表情がある」と気づいたときだ。

鈴木さんが育てたブロッコリーを前に、三浦海岸駅近くにあるビストロ・LÉGUME(レギューム)の大塚シェフがまず確かめたのは、つぼみだけではなかった。

茎の甘み。葉のほろ苦さ。火を入れたときに立ち上がる香りの違い。それぞれは主張しすぎないのに、組み合わせると、ひとつの料理として輪郭を持ちはじめる。ここで初めて、「丸ごと食べる」という言葉が、思想ではなく技術になる。

つぼみは、主役の座に居続ける。でも、茎や葉は、脇役に甘んじない。それぞれの役割を与えられ、一皿の中で居場所を持つ。

料理人が惚れたのは、“余すところなく使える”便利さではない。ひとつの野菜が、最初から最後まで物語を持っていることだ。畑で育てられ、台所で分けられ、皿の上で、もう一度ひとつになる。ブロッコリーは、部分の集合体ではなく、丸ごとでひとつの「主役」だった。

LÉGUME(レギューム)

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ブロッコリー新時代は、もう始まっている

ブロッコリーが、急に変わったわけではない。畑で育つ姿も、緑の色も、昔とそう変わらない。変わったのは、向き合い方だ。つぼみだけを切り取る野菜から、茎も、葉も、味わいの一部として受け止める野菜へ。「使える部分」ではなく、「生きている全部」を見る視線へ。

畑では、「捨てないため」ではなく「おいしいから」丸ごと伝えたいという思いが育ち、厨房では、素材を削らず、引き出す料理が静かに増えていく。制度が追いつき、料理人が惚れ、食べる側が気づき始めた今――ブロッコリーは、いつの間にか主役の席に座っていたのだ。

特別なことは、何もいらない。茎を捨てずに切ってみる。葉を一度、口にしてみる。それだけで、もう新時代の入り口に立っている。ブロッコリー新時代は、どこか遠くで始まるものではなく、今夜の食卓から、もう始まっているのかもしれない。

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まとめ

ブロッコリーは、ずっと前からそこにあった。特別な野菜でも、流行の野菜でもなく、毎日の食卓に、当たり前のように並んできた存在だ。でも今、そのブロッコリーを「どう育て、どう使い、どう食べるか」という視点で見直す動きが、畑から厨房へ、そして食卓へと、静かにつながっている。

つぼみだけでなく、茎も葉も、削る対象ではなく「個性」として向き合うこと。規格や効率の外側にあるおいしさに、目を向けること。それは、野菜の話であると同時に、私たちの暮らし方そのものを映す鏡なのかもしれない。

丸ごと味わうという選択は、特別な技術でも、難しい知識でもなく、「ちゃんと見て、ちゃんと食べる」ことから始まる。

ブロッコリー新時代は、もう始まっている。それは遠くの畑や一流レストランだけの話ではなく、今日の台所で、包丁を入れるその瞬間から。——そんなことを、一皿のブロッコリーが、そっと教えてくれていた。

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