宇和島のリアス海岸は名物・鯛めしを生み出したが名物のじゃこ天は仙台の伊達家が由来?!【ブラタモリ#257】

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こんにちは鳥巣です。12月9日のブラタモリは愛媛県の宇和島が舞台です。愛媛県といえばNHKのニュース「おはよう日本」キャスターの首藤奈知子(しゅどうなちこ)アナウンサーの故郷ですが、首藤アナは同じ愛媛でも松山市の出身なので、ちょっと離れています。

首藤奈知子アナ
首藤奈知子アナ(NHK)

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愛媛県の宇和島から高知県の宿毛(すくも)までは、交通アクセスが非常に脆弱で鉄道もないことから、景勝地が多いにも関わらず大都市圏からのアクセスも悪く、あまり観光開発もされていません(特に宇和島市以南)。逆に九州・大分県の佐伯港から高知県の宿毛に渡るのが便利かもしれませんが、いずれにしても宇和島に行くのはかなり大変です。

宇和島地図
松山ー宇和島位置関係(Googleマップ)

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宇和島城はどんなお城?

宇和島城が最初に築かれたのは、941年の藤原純友の乱を鎮めるために構えた砦が元とされていて、その後の1595年に、藤堂高虎が宇和郡7万石を7万石を拝領した際に、それまで板島丸串城を「宇和島」と改めたことから、関ヶ原後の1601年から築城工事が行われたといいます。さすがは藤堂高虎、見事な石垣です。

宇和島城の天守と石垣
宇和島城の天守と石垣

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その後は、1614年に仙台の伊達政宗の長男・秀宗が宇和島に入り、それ以降仙台・伊達家の別家として宇和島伊達家が9台に渡って幕末まで城主になりました。この時、城主の秀宗が故郷の仙台を偲んで、仙台から職人を連れてきたのが始まりとされています。

仙台からやってきたかまぼこ職人(仙台は”笹かまぼこ”が有名ですね)たちが、宇和島で獲れる雑魚(ざこ)をすり身にして活用したという説や、原料の”はらんぼ”(ほたるじゃこ)から「じゃこ天」と呼ばれるようになったという説などがあります。先日は秋田県知事がじゃこ天の悪口を言ったとか言わないとか、でも今ではすっかり宇和島の名産になっています。

また現在の天守などは、宇和島伊達家によるものですが、縄張は藤堂高虎が創建した当時の形が残されているといわれ、外堀などの外郭ラインが五角形になっていることから、四角形を想定して攻めてくる敵から1辺の死角を作ることで、攻守にわたって有利な構造になっていると思われます。この辺りはタモリさんがブラブラ歩いて説明してくれるでしょう。

宇和島城縄張り
宇和島城の縄張り

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愛媛名物の鯛めしには2種類ある?!

宇和島名物といえば「鯛めし」ですが、私が生まれて初めて鯛めしを食べたのは、日本中がバブル景気に沸いていた昭和の頃の大阪・北新地でした。もちろん自分のお金ではありません(苦笑)

当時からそんな高級料理でしたから、「鯛めしといえば土鍋の炊き込みご飯」という思い込みをしていたのですが、ある時テレビ番組で、「宇和島の鯛めしは炊き込みご飯じゃない!」という話を聞きました。

鯛を炊き込んだのは「松山鯛めし」で、「宇和島鯛めし」は「生の鯛に出汁と卵を絡めて白いご飯にかける」のだというのです。いやぁ〜どっちも美味しそうです。

松山といえばほとんど瀬戸内海ですが、宇和島は豊後水道に面しています。その辺りで食文化も違っているのかもしれません。実は宇和島鯛めしを初めて食べたのは、愛媛の今治から広島の尾道に向かう「しまなみ海道」のサービスエリアでした。

しまなみ海道で食べた鯛めし
しまなみ海道で食べた鯛めし

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でもこれも、本場の宇和島鯛めしとはちょっと違うかもしれません。一度、本場の宇和島鯛めしを食べてみたいものです。

宇和島鯛めし
宇和島鯛めし
宇和島鯛めし

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リアス式海岸がもたらした海賊文化?!

愛媛県の西側、宇和海はいわゆるリアス海岸です。恐らくこれは、今より海水面が低かった1万年以上前に、川や氷河などに侵食されて谷になった場所に、1万年くらい前の縄文海進(縄文時代の末期に氷河期が終わって海水面が急激に高くなった現象)で、谷間だったところに海が入り込んで作られた地形だと思われます。

リアス海岸(Googleマップ)
リアス海岸(Googleマップ)

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この近くの縄文時代の遺跡からは、鹿の骨で作った釣り針や銛のやじり、鯛の骨なども見つかっていて、この頃から鯛などの魚が豊富で食料になっていたと思われます。

最も背後には四国山地の山々が海岸近くまで迫っていますから、農耕に適した土地ではなかったようで、宇和島近郊の山の斜面には石垣を積み上げた棚田で、古くからサツマイモなどが栽培されていました。

石垣の棚田
石垣の棚田

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海の方はといえば、リアス海岸と多島海で、潮の流れが早くて複雑ですから、プロの水先案内がいなければ航海も覚束なかったでしょう。

現在はしまなみ海道の通っている瀬戸内海の来島海峡も、同じように潮の流れがわからないと遭難する危険が多くありましたから、村上水軍などの海賊(というと聞こえは悪いのですが、いわゆる水先案内)などが通行料で稼いでいたといわれています。

同じように西予海や宇和海でも、海賊が活躍していたらしく、10世紀頃には、「藤原純友の乱」の中心人物だった藤原純友が宇和島の沖にある日振島を拠点としていました。このような地形は自然と海賊の文化が栄えるのかもしれません。

またこのように入り組んだ入江によって湾内は波が静かで、養殖の筏などを設置するのに適していることから、今では真鯛やブリ、真珠の養殖が盛んに行われています。

湾内に浮かぶ養殖筏
湾内に浮かぶ養殖筏

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宇和島のまとめ

宇和島城はどんなお城?

宇和島城が最初に築かれたのは、941年の「藤原純友の乱」を鎮めるために構えた砦が元とされていて、その後の1595年に、藤堂高虎が宇和郡7万石を7万石を拝領した際に、それまで板島丸串城を「宇和島」と改めたことから、関ヶ原後の1601年から築城工事が行われたといいます。

愛媛名物の鯛めしには2種類ある?!

鯛を土鍋で炊き込んだのは「松山鯛めし」で、「宇和島鯛めし」は「生の鯛に出汁と卵を絡めて白いご飯にかける」のだそうです。松山といえばほとんど瀬戸内海側ですが、宇和島は豊後水道に面しています。その辺りで食文化も違っているのかもしれません。
・宇和島鯛めし(生の鯛に出汁と卵を絡めてご飯にかける)
・松山鯛めし(ご飯と鯛を出汁で炊き込む)

リアス式海岸がもたらした海賊文化?!

宇和海はリアス海岸と多島海で、潮の流れが早くて複雑ですから、プロの水先案内がいなければ航海も覚束なかったでしょう。10世紀頃には、「藤原純友の乱」の中心人物だった藤原純友が宇和島の沖にある日振島を拠点としていました。このような地形は自然と海賊の文化が栄えるのかもしれません。

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