こんにちは鳥巣です。9月16日のブラタモリは稚内です。9/30の利尻島と合わせてロケに行ったんでしょうね。稚内といえば日本最北端の地(北方領土を除く)としてつとに有名ですが、稚内には宗谷岬以外に何があるのでしょうか?最近では帆立貝の出荷額日本一でも有名ですが、稚内周辺の見どころや歴史、その他の魅力をまとめてみました。
<広告の下に続く>
稚内の宗谷岬は本当に日本の最北端なの?
一般に日本最北端の地は稚内・宗谷岬と言われていますが、ブラタモリのWebサイトでも、「(今回は稚内を「通常交通機関で行ける離島を除いた最北の町」としています)」と解説されているように、通常交通機関で行けない場所を含めると最北端は北方領土・択捉島(えとろふとう)のカモイワッカ岬(北緯45度33分28秒 東経148度45分14秒)になります。
「エトロフ」とはアイヌ語で「エトゥ・オロ・オ・ㇷ゚」で「鼻のところにある場所」、つまり「岬のある所」という意味です。
日本政府は戦後80年近く、長年にわたって領有権を主張していますが、現在もロシアによって実効支配されています。ちなみに稚内は「ワッカ(飲み水)の「ナイ(小さい川)」という意味です
いずれにしても、ほとんど日本の最北端に近いということは、冬になれば猛烈な寒さや暴風、流氷に曝されるわけで、江戸時代以前からアイヌの人たちは、今のような防寒具もない状況で、厳しい自然環境に耐えてこの地を生活の場としていたわけですから、驚くべきことです。
<広告の下に続く>
宗谷岬の近くには「間宮堂」というラーメン屋があります。「ラーメンは北に行くほど美味しくなる」ともいわれていますが、そうすると最北端のこのラーメンこそ「日本一旨いラーメン」かもしれません。名物は稚内名物の帆立貝を使った「元祖帆立ラーメン」だそうです。
<広告の下に続く>
宗谷丘陵の絶景と成り立ちは?
宗谷丘陵は、宗谷岬の南部に広がるなだらかな丘陵地帯で、約2万年前の氷河期に出来上がったといわれています。
北から南に向かって標高が高くなり緩やかに起伏していますが、深い谷はほとんどありません。明治期の山火事によって樹木が消失しましたが、年間を通して気温が上がらず強風が吹くために、現在でも樹木が回復していません。そのため、樹木にさえぎられることなく、絶景を見ることができる数少ない場所となっています。
<広告の下に続く>
このような地形は「周氷河地形」と呼ばれ、氷河期の末期に地表の岩の割れ目に溜まった水が、凍結と氷解を繰り返したことによって波打つような地形が形成されるものです。現在は約1600haの広大な牧場として、宗谷岬肉牛牧場が3,000頭もの牛を放牧しています。
目に付く人工物は丸山のレーダー基地やその周囲に建つ宗谷岬ウインドファームの風力発電風車群、そして牧場の厩舎のみ。観光開発はされておらず、この手つかずに近い風景が旅心をくすぐります。さらに、「シェルロード」と呼ばれるホタテの貝殻を粉砕し、砂利代わりに敷いた「白い道」が、近年、観光名所になっています。
シェルロードはオンロードのバイクでも走ることができますが、最近はマナーの悪い観光客に牧場主が憤慨して道路を閉鎖してしまったそうです。こうやって観光客は全国で、自分で自分の首を絞めていってしまうのですね。愚かなことです。
<広告の下に続く>
日本最北端の国境の町と間宮林蔵の関係は?
江戸時代の日本地図の制作者といえば伊能忠敬が有名ですが、世界地図に日本語を残した人として世界的にも有名な間宮林蔵(まみやりんぞう)はご存知だと思います。
その間宮林蔵が樺太(からふと、現在のサハリン)を目指したのがこの稚内です。このあたりは司馬遼太郎の「菜の花の沖」(第5巻)でも触れられています。間宮林蔵は樺太が島であることを証明するために、何度も樺太を訪れ、遂に樺太は間宮海峡でロシア本土と海で遮られていることを発見した人物です。宗谷岬には間宮林蔵のブロンズ像が建てられています。
特に冬場は気象条件も厳しいために、夏の短い間に”凍っていない海”を確認することには並々ならぬ苦労があったことでしょう。ただその頃、ロシアも日本の存在に気づいて南進していたため、領土確保のために江戸幕府も測量に力を入れていたわけです。
<広告の下に続く>
結局はロシアの人とも日本人とも交易をしていたアイヌの人を介して、北方の品物を手に入れて箱館(現在の函館)に運び、北前船で日本本土に運ぶ手筈を整えたのが、北前船交易で財を成した淡路島の元漁師・高田屋嘉平というわけです。
またロシアは大陸を通して中国とも交易をしていたため、日本と中国の交易も危険な南方航路を使うことなく、樺太経由でも行われていました。
今でも北海道には自衛隊の駐屯地やレーダーサイトが数多くあって、北方防衛の拠点となっています。かつてソ連の最新鋭戦闘機・ミグ25で函館空港に強行着陸して、その後、アメリカに亡命した「ベレンコ中尉亡命事件」があったのは、今から50年近く前のことですが、日本でもトランジスタラジオが普及していた時代に、ソ連の最新鋭戦闘機の中枢に真空管の電子回路が使われていたのには、「鉄のカーテン」の向こう側が透けて見えたものでした。
<広告の下に続く>
最北の町・稚内のまとめ
稚内の宗谷岬は本当に日本の最北端なの?
「通常交通機関で行ける離島を除いた最北の町」という意味で、日本最北端の地は稚内・宗谷岬です。北方領土を含めると、択捉島のカモイワッカ岬になります。
宗谷丘陵の絶景と成り立ちは?
宗谷丘陵は、北から南に向かって標高が高くなり緩やかに起伏していますが、深い谷はほとんどありません。明治期の山火事によって樹木が消失しましたが、年間を通して気温が上がらず強風が吹くために、現在でも樹木が回復していません。このような地形は「周氷河地形」と呼ばれ、氷河期の末期に地表の岩の割れ目に溜まった水が、凍結と氷解を繰り返したことによって波打つような地形が形成されるものです。
日本最北端の国境の町と間宮林蔵の関係は?
江戸幕府の役人・間宮林蔵が樺太を目指したのがこの稚内です。間宮林蔵は樺太が島であることを証明するために、何度も樺太を訪れ、遂に樺太は間宮海峡でロシア本土と海で遮られていることを発見した人物です。宗谷岬には間宮林蔵のブロンズ像が建てられています。
ただその頃、ロシアも日本の存在に気づいて交易を求めていたことから、ロシアの人とも日本人とも交易をしていたアイヌの人を介して、北方の品物を手に入れて箱館(現在の函館)に運び、北前船で日本本土に運ぶ手筈を整えたのが、北前船交易で財を成した淡路島の元漁師・高田屋嘉平というわけです。つまり当時から稚内は北方への玄関口になっていたわけです。
またロシアは大陸を通して中国とも交易をしていたため、日本と中国の交易も危険な南方航路を使うことなく、間宮海峡を渡って樺太経由でも行われていました。