大阪人は、どうしてこんなに「クセが強い」のでしょうか。ヒョウ柄を着こなすオバちゃん。朝からにぎやかな新世界の飲食店。お好み焼きを自分で焼こうとしたら、店の人に叱られてしまった……なんて話もあります。
もっとも、そんな大阪人ばかりではありません。テレビでおなじみのイメージと、実際に街を歩いて出会う人々の姿は、必ずしも同じではないのです。でも、大阪の街に息づく美しさを眺めていると、どこか一筋縄ではいかない、独特のこだわりが見えてきます。
住吉大社には、驚くほど急な反りを持つ橋があり、堺には、昆布を紙のように薄く削る職人がいます。小さな箱ずしには、食べるのが惜しくなるほどの美しさが詰め込まれ、新世界には、街の人々に愛され続ける通天閣がそびえています。
便利だから、美しいから、有名だから。それだけでは説明できないものが、そこにはありそうです。NHK『美の壺』「今に花咲く 大阪の美」をきっかけに、橋、おぼろ昆布、箱ずし、通天閣をたどりながら、大阪の人々が育んできた美意識を探してみたいと思います。
もしかすると、私たちが「クセが強い」と感じていたものこそが、大阪ならではの美しさを生み出してきたのかもしれません。
【放送日:2026年10月14日(水)19:30 -20:00・NHK-BSP4K】
【放送日:2026年10月19日(月)13:00 -13:30・NHK-BSP4K】
【放送日:2026年10月21日(水)8:00 -8:30・NHK-BSP4K】
<広告の下に続きます>
大阪の橋は、なぜ渡りにくくても愛されるの?
橋というものは、川の向こう岸へ渡るために造られるものです。だから、できるだけ平らで、歩きやすく、安全なほうがいい。そう思いますよね、普通は…。ところが大阪には、わざわざ急な坂を上り、また下りなければ渡れない橋があります。住吉大社の反橋(そりはし)です。
朱色の欄干が美しい半円形を描くことから、「太鼓橋」とも呼ばれています。長さは約20メートル。高さは約3.6メートル。そして、驚くことに最大傾斜は約48度。もはや橋というより、ちょっとした山登りです。
「大阪人はせっかち」とよく言われますが、これでは急いで渡ることもできません(笑)。しかも、昔は現在のような階段状の足場がなく、橋板に開けられた足掛け用の穴を頼りに上り下りしていたそうです。どうして、そんなに渡りにくい橋が造られたのでしょうか?
実は、この橋には、単なる通路とは違う役割があるのです。住吉大社では、反橋を渡るだけで「おはらい」になるという信仰が伝えられています。俗世から神聖な場所へ向かう、その境目に架けられた橋。大きく反り返った姿は、天と地を結ぶ虹にもたとえられます。
つまり、この橋にとって大切なのは、いかに早く向こう岸へ着けるか、ということだけではないのでしょう。一歩ずつ足元を確かめながら上り、頂上を越え、ゆっくりと下りていく。その時間そのものが、神様の前へ向かう心を整えるひとときになるのかもしれません。
もっとも、急な傾斜が何のために、いつ現在のような形に定められたのか、すべてが明らかになっているわけではありません。信仰として伝えられてきた意味と、橋の設計の歴史は、分けて考える必要があります。それでも、渡りやすさだけでは測れない価値が、この橋にあることは確かでしょう。
ところで、大阪は昔から「浪華八百八橋(なにわはっぴゃくやばし)」と呼ばれてきました。八百八というのは、それほどたくさんの橋があるという表現で、実際に808本あったという意味ではありません。江戸時代の大坂には、およそ200の橋が架かっていたとされています。
そして、ここに大阪らしい話があります。当時の江戸では、幕府が費用を負担する橋も多かったのですが、大坂では公儀橋がわずか12橋。それ以外の多くは、商人や周辺の町々がお金を出し合って造り、維持していた「町橋」だったのです。
「橋がなければ商売にならへん。ほな、自分らで架けたらええやん!」そんな声が聞こえてきそうですが、これはもちろん想像です(笑)。ただ、商いと暮らしに必要な橋を、町の人々が自分たちで支えていたという事実には、大坂の商人たちの力強さが表れています。
橋は、単に川を渡るための設備ではありませんでした。人が行き交い、荷物が運ばれ、商売が生まれ、町と町がつながっていく。まさに、大坂という都市を育てた存在だったのです。その橋に、さらに美しさを加えた例が、難波橋(なにわばし)です。
中之島の東側に架かるこの橋には、四隅に立派なライオン像が置かれています。そのため、親しみを込めて「ライオン橋」とも呼ばれています。なぜ大阪の橋にライオンがいるのでしょう。少なくとも、川を渡るためにライオン像が必要なわけではありません(笑)。
現在につながる難波橋の装飾は、大正時代の市電整備に伴う架け替えの際、周辺の公園と一体になった美しい都市景観をつくろうとして設けられたものです。橋を単なる交通施設で終わらせず、街の顔にしようとしたのですね。
さらに、難波橋の欄干には、大阪市の市章も組み込まれています。その市章のモチーフは、澪標(みおつくし)。かつて浅瀬の多かった難波の海で、船が安全に通れる水路を知らせるために立てられていた標識です。水運によって栄えた大阪は、その澪標を1894年に市のシンボルとして選びました。
ここまで見てくると、大阪の橋には、いくつもの顔があることに気づきます。住吉大社の反橋は、信仰と人々を結ぶ橋。町人たちが架けた橋は、暮らしと商いを結ぶ橋。難波橋は、街の風景に誇りと華やかさを添える橋。目的も姿も違うけれど、そこには共通するものがあります。
橋を、ただ向こう岸へ渡るだけのものにしなかったこと。便利さを求める一方で、祈りや美しさ、街への愛着まで込めてしまう。大阪の「クセの強さ」は、そんなところにも表れているのかもしれません。
そして、そのこだわりは、橋だけでは終わりません。次に登場するのは、昆布を驚くほど薄く削る職人たち。大阪の美意識は、どうやら食べ物にまで及んでいるようです。
<広告の下に続きます>
大阪人は、なぜ昆布をそこまで薄く削りたがるの?
温かいうどんの上に、ふわりと一枚のおぼろ昆布。つゆを吸うと、薄い昆布がゆっくりとほどけ、口の中にうまみが広がっていきます。あの何ともいえない食感が好きだという人も、多いのではないでしょうか。
ただ、おぼろ昆布は、毎日気軽にたっぷり使えるほど安いものではありません。同じ昆布なのに、どうしてこんなに値段が違うのでしょう。その秘密は、昆布の削り方にあります。
実は、よく似た名前の「おぼろ昆布」と「とろろ昆布」には、製法の違いがあるのです。一般的なとろろ昆布は、酢で柔らかくした昆布を何枚も重ね、圧縮して固めたものを側面から削って作ります。一方、伝統的なおぼろ昆布は、一枚の昆布を広げ、その表面を専用の包丁で薄く削っていきます。
例えるなら、前者は積み重ねた紙の束を横から削るようなもの。後者は、一枚の紙の表面から、さらに薄い一枚を削り出すようなものです。考えてみれば、ずいぶん気の遠くなる作業ですよね。しかも、昆布は自然のものですから、厚さも硬さも一様ではありません。包丁の角度や力加減を少し間違えれば、きれいな帯状には削れません。
熟練した職人は、昆布の状態を見極めながら、薄く、長く、美しく削り出していきます。そこまで手間をかけるのは、見た目のためだけではありません。薄く削られた昆布は、口当たりが柔らかく、つゆにもなじみやすくなります。食べた瞬間のほどけ方まで、職人の技が左右するのです。それにしても、なぜ大阪で、こんな技術が発達したのでしょうか?
そもそも、昆布の主な産地は北海道です。大阪の海で大量に採れるわけではありません。それなのに、大阪には昆布を使った食文化が深く根づいています。その背景にあるのが、「北前船」と呼ばれる江戸時代の海上交易です。
北海道などで採れた昆布は、日本海沿岸の港を経由しながら各地へ運ばれ、大坂や堺にも届けられました。いわゆる「昆布ロード」です。この交易によって、遠く離れた地域の海の恵みが、上方の食卓を支えるようになりました。
なかでも堺には、もう一つ大きな強みがありました。刃物の街だったことです。堺は古くから刃物づくりで知られ、優れた包丁と、それを使いこなす職人の技術が受け継がれてきました。
昆布という素材と、切れ味のよい刃物。この二つが出会ったことで、薄く削るという加工技術が磨かれていったのです。堺の昆布加工業は、大正時代から昭和初期にかけて最盛期を迎え、約150軒もの加工業者があったと伝えられています。
ところで、昆布を薄く削る文化は、大阪だけのものではありません。福井県の敦賀も、おぼろ昆布の産地として知られています。北海道から運ばれた昆布が、日本海側の港町に加工文化を育て、さらに大阪や堺でも独自の技術が発達していった。
そう考えると、おぼろ昆布は一つの街だけが生み出した名物というより、海を通じてつながった各地の知恵と技術の結晶なのかもしれません。
そして、もう一つ面白いことがあります。おぼろ昆布を削り進めると、最後には中心部分が残ります。これを薄く整えたものが、白板昆布です。大阪の押しずしなどに使われる、あの薄い昆布ですね。つまり、一枚の昆布は、削られた部分だけでなく、残った部分にも役割があるのです。
薄く削る技術を磨きながら、素材を無駄なく使う。そこには、職人の美意識と、商いの街らしい合理性が同居しているようにも感じられます。
もっとも、薄ければ何でもよいというわけではないのでしょう。大切なのは、昆布の味や香りを損なわず、料理の中で最もおいしく感じられる形に仕上げること。そのために、刃物を研ぎ、素材を見極め、何度も包丁を動かす。おぼろ昆布の一枚には、そんな積み重ねが隠れているのです。
「そこまで薄くせんでも、昆布は昆布やろ?」そんな声が聞こえてきそうですが、なにわの職人たちは(堺を「なにわ」というのかどうかは知りません)、きっと簡単には譲らないのでしょう(笑)。
ほんのわずかな厚さの違いに、手間と時間を惜しまない。大阪人の「クセの強さ」は、こういう細部へのこだわりにも表れているのかもしれません。
そして次は、昆布だけでなく、すしそのものを小さな箱の中で美しく仕上げてしまう大阪の食文化へ。どうやら浪花の職人たちは、食べ物にも相当な美意識を求めてきたようです。
<広告の下に続きます>
大阪のすしは、なぜ小さな箱に美しさを詰め込むの?
「すし」と聞いて、まず思い浮かべるのは何でしょう。目の前で職人が握ってくれる、マグロやタイ、エビの握りずし。そんな人が多いかもしれません。ところが、大阪には、握らずに「押す」ことで作る、もう一つのすし文化があります。
箱ずしです。四角い木型にすし飯を詰め、その上に色とりどりの具材を並べて、ぎゅっと押し固める。出来上がったすしは、まるで小さな宝石箱のようです。焼きアナゴの茶色、小鯛の淡い色、エビの赤、厚焼き卵の黄色。一つひとつの色が美しく配置され、切り分けられた断面まで整っています。
ここまでくると、料理というより、食べられる工芸品。大阪の職人さんは、すしまで芸術作品にしてしまったのでしょうか(笑)。
実は、大阪の箱ずしが現在のような華やかな姿になったのは、明治時代のことでした。もともと大阪では、サバやアジなど、比較的身近な魚を使った押しずしが親しまれていました。それを、より豪華な料理へと発展させたのが、船場の老舗「吉野寿司」の三代目だったと伝えられています。
タイやエビ、アナゴなどの上質な食材を使い、色彩まで計算して木型の中に配置する。そうして生まれた箱ずしは、「二寸六分の懐石」と呼ばれるようになりました。二寸六分とは、およそ8センチ。手のひらに収まるほどの小さな木型の中に、会席料理のような多彩な味わいを詰め込んだというわけです。
しかも、見た目を整えるだけではありません。アナゴは焼き、小鯛は締め、エビはゆで、卵は厚く焼く。具材によって下ごしらえを変え、それぞれのおいしさを引き出していきます。老舗では、材料の仕込みに一日がかりになることもあるそうです。
食べるのは、ほんの数分。でも、その数分のために、職人は一日を費やす。なんとも贅沢な話ですよね。では、なぜ大阪では、こんなに手間のかかるすしが喜ばれたのでしょうか?
その背景には、商人の街・船場の文化がありました。大阪の船場には、商売で財を成した商家が集まり、食や芸能を楽しむ文化が育まれていました。箱ずしは、そんな旦那衆の間で人気を集め、芝居見物の幕間に食べる弁当や、大切な人への手土産としても重宝されるようになります。
ここに、江戸前の握りずしとは違う魅力がありました。握りずしには、職人が握ったものを、その場で味わう楽しさがあります。一方、箱ずしは、具材をあらかじめ丁寧に調理し、すし飯と一体になるように押して作ります。
時間がたっても味がなじみやすく、持ち運んで楽しめる。つまり、美しくて、おいしくて、人に贈ることもできる。見た目の華やかさと、商いの街らしい実用性が、ここでも一緒になっているのです。
そして、もう一つ忘れてはいけないのが、昆布です。大阪の押しずしの一つ、バッテラには、締めたサバの上に薄い白板昆布をのせるものがあります。この白板昆布は、おぼろ昆布を削ったあとに残る芯の部分から作られます。前の章で登場した、堺の昆布職人の仕事が、ここで再びつながるのです。
昆布を薄く削った部分は、おぼろ昆布として味わう。残った芯の部分は、白板昆布としてすしに使う。一枚の昆布を、最後まで生かしきる。美しさを追求しながら、素材を無駄にしないという考え方には、商人の街・大阪らしい知恵も感じられます。
もっとも、現代の大阪で食べられているすしが、すべて箱ずしというわけではありません。握りずしも回転ずしも、もちろん親しまれています。箱ずしは、日常の食事というより、祝い事や手土産、観劇などの特別な場面で、その伝統を受け継いできた料理でもあるのです。
それでも、小さな木型の中に、ここまで手間と美意識を注ぎ込む文化が生まれたことは、興味深いですよね。「すしなんやから、おいしかったらそれでええやん」そう言いたくなるところですが、大阪の職人さんは、それだけでは満足しなかったのでしょう(笑)。
味はもちろん、色も形も、持ち運んだ先での楽しみ方まで考える。食べる人を喜ばせるためなら、手間も遊び心も惜しまない。大阪人の「クセの強さ」には、そんなもてなしの精神も隠れているのかもしれません。
そして次に登場するのは、小さな箱とは正反対の、大きな塔。新世界の真ん中に立つ通天閣です。高さだけなら、もっと立派な塔はいくらでもあります。それなのに、大阪の人々は、なぜあの塔をこれほど愛しているのでしょうか?
<広告の下に続きます>
通天閣は、なぜ高さだけでは測れない大阪の自慢なの?
大阪のシンボルといえば、通天閣。テレビで大阪の街が紹介されると、決まってといっていいほど登場する、あの塔です。でも、実際に上ってみると、こんな感想を抱く人もいるのではないでしょうか。「……思ったほど高くないな」(笑)
東京タワーや東京スカイツリーを知っている人なら、なおさらかもしれません。もちろん、展望台からの景色を楽しむことはできます。それでも、大阪の人々が誇るほど特別な塔なのかと聞かれたら、少し首をかしげたくなる。ところが、通天閣の魅力を知るには、どうやら高さを比べているだけでは足りないようなのです。
そもそも、通天閣は最初から現在の姿だったわけではありません。初代通天閣が誕生したのは、1912年。当時、新世界には「ルナパーク」という遊園地があり、そのシンボルとして建てられました。しかも、初代のデザインは実に大胆。
フランス・パリの凱旋門を思わせる建物の上に、エッフェル塔を思わせる塔を載せたような代物だったのです。「ええやん、パリの名所を一つにまとめたら、もっと豪華になるやろ!」設計者が本当にそう言ったわけではないでしょうが、ついそんな大阪弁を想像してしまいます(笑)。
異国の華やかさを取り込み、自分たちの街に新しい娯楽の世界をつくろうとした。初代通天閣には、そんな時代の勢いが感じられます。ところが、その塔は戦争の時代を生き延びることができませんでした。1943年、火災で損傷した初代通天閣は解体され、鉄材は戦時中の金属供出に回されました。
新世界から、街のシンボルが消えてしまったのです。それでも、戦後になると、地元の人々の間から通天閣を再建しようという動きが生まれます。そして1956年、現在の二代目通天閣が完成しました。つまり、いま私たちが見上げている通天閣は、単に昔から残っている塔ではありません。
一度失われたものを、街の人々がもう一度取り戻した塔なのです。ここに、通天閣が愛され続ける大きな理由があるのかもしれません。さらに、通天閣には、意外な美術作品が隠されています。それが、塔の足元から見上げたところにある天井画です。
初代通天閣にも、化粧品会社・中山太陽堂による華やかな天井画がありました。しかし、塔の解体とともに失われ、長い間、人々の目に触れることはありませんでした。その天井画が復刻されたのは、2015年。通天閣の免震改修に合わせ、現在のクラブコスメチックスの協力によって、約70年ぶりに往時の華やかさがよみがえったのです。
新世界のにぎやかな街並みを歩き、ふと頭上を見上げると、そこには大正時代を思わせる優美な絵が広がっている。通天閣には、外から眺めるだけでは気づかない美しさもあるのですね。そして、もう一人。通天閣に独特の魅力を見いだしているのが、大阪出身の美術家・森村泰昌さんです。
森村さんは、歴史上の人物や著名な芸術家、映画スターなどに自ら扮し、写真作品を制作することで知られています。そんな森村さんの作品の一つに、フランスの女優ブリジッド・バルドーに扮した自分自身を、通天閣の前に登場させたものがあります。
バルドーと通天閣。普通なら、あまり結びつかない組み合わせですよね。けれど、初代通天閣がパリのエッフェル塔や凱旋門を思わせる建築だったと知れば、少し違って見えてきます。本物のパリではないけれど、パリへの憧れが形になった大阪の新世界。本物のバルドーではないけれど、バルドーに扮した森村さん。そこには、何かをまねることから、まったく別の新しい表現が生まれる面白さがあります。
ここからは、私たちなりの解釈です。通天閣の魅力は、世界一を目指すことよりも、世界中の面白いものを自分たちらしく楽しんでしまうところにあるのではないでしょうか。エッフェル塔に憧れたら、大阪にも塔を建ててみる。一度なくなったら、もう一度建ててしまう。
そして、その周りには、串カツ屋も、昔ながらの飲み屋も、土産物屋も、にぎやかな看板も集まってくる。整然とした美しい街並みとは、かなり違います。けれど、通天閣だけを取り出して眺めるよりも、あの雑多な新世界の真ん中に立っている姿のほうが、ずっと大阪らしく見えるのです。
そうそう、通天閣といえば、忘れてはいけない存在がいました。ビリケンさんです。足の裏をなでると幸運が訪れるといわれる、あの愛嬌たっぷりの神様。実はビリケンは大阪生まれではなく、20世紀初頭のアメリカで生まれたキャラクターです。
それが日本に渡り、新世界のルナパークで人気を集め、なぜかやがて通天閣の名物になりました。海外からやって来たものが、いつの間にか大阪の顔になってしまう。これもまた、なんとも面白い話ではありませんか。考えてみれば、初代通天閣も、ビリケンさんも、もともとは海外の文化に由来するものです。
それを自分たちの街に取り込み、長い時間をかけて、誰にもまねできない「大阪の風景」に育ててきた。通天閣の本当の価値は、展望台の高さだけでは測れないのでしょう。
そこには、街の夢があり、戦争による喪失があり、再建への思いがあり、日々の暮らしがあります。「東京タワーのほうが立派やん」そう言われても、大阪の人々は、きっと簡単には引き下がらないし何とも思っていないのかもしれません(笑)。
大きいかどうかではなく、自分たちの街にとって大切かどうか。通天閣への愛着には、そんな価値観が表れているように思います。
そして、ここまで大阪の橋、昆布、すし、塔を見てきて、ようやく最初の疑問に戻ってきました。大阪人は、なぜこんなに「クセが強い」のか。その答えは、案外、私たちが「大阪らしい」と笑っていたものの中に隠れているのかもしれません。
<広告の下に続きます>
大阪人の「クセの強さ」は、どこから生まれるの?
大阪のオバちゃんといえば、ヒョウ柄。大阪のオッチャンといえば、昼間から新世界で一杯。そして、大阪人といえば、誰もがボケとツッコミを心得ている。テレビを見ていると、そんなイメージが浮かんできます。
でも、実際に大阪の街を歩いてみると、ヒョウ柄のオバちゃんがそこらじゅうにいるわけではありません。もちろん、道行く人が次々と漫才を始めるわけでもない。当たり前ですが、大阪にも静かな人はいますし、冗談が苦手な人だっています。それなのに、どうして私たちは、大阪人にこれほど強烈な個性を感じるのでしょうか。
その答えを考えるために、まずは大阪のお好み焼き屋さんへ行ってみましょう。関東では、客が自分でお好み焼きを焼く店は珍しくありません。ところが、大阪のある店で同じように焼こうとしたら、店の人に注意されてしまった。そんな経験をしたことがあります。
「お好み焼きくらい、自分で焼かせてくれてもいいじゃん!」と思う一方で、店の人からすれば、きっと自分たちの焼き方に譲れないものがあったのでしょう。もちろん、これは一軒のお店での出来事。大阪のすべてのお好み焼き屋さんがそうだという話ではありません。
でも、料理の仕上がりにこだわる店の姿勢は、今回見てきた職人たちにも、どこか通じるものがあります。住吉大社には、最大傾斜約48度という、簡単には渡れない反橋がありました。堺の職人は、一枚の昆布を、驚くほど薄く削り出していました。箱ずしの職人は、ほんの小さな木型の中に、味も彩りも詰め込んでいました。
そして、新世界の通天閣。高さを競うなら、もっと大きな塔はいくらでもあります。それでも大阪の人々は、一度失われた塔を再建し、天井画をよみがえらせ、とうとう滑り台まで取り付けてしまいました。「いやいや、そこまでせんでもええやろ!」思わず、そうツッコミたくなります(笑)。
けれど、少し考えてみると、これらに共通するものが見えてきます。それは、自分たちが面白いと思うことや、大切にしていることを、簡単には手放さない姿勢ではないでしょうか?
もちろん、反橋の形が大阪人の気質によって決まったわけではありませんし、職人技を大阪だけの特別な性格に結びつけることもできません。大阪の文化は、信仰や地理、交易、商業、さまざまな時代の出来事によって育まれてきたものです。
ただ、そうした歴史の中で生まれたものを、工夫しながら受け継ぎ、ときには新しいものを取り込んでしまう。そこには、大阪という街ならではの活気が感じられます。
そして、もう一つ。大阪を語るとき、どうしても避けて通れないのが「笑い」です。大阪人はオモロい。大阪では会話にオチが必要。そんな話を、私たちは何度も耳にしてきました。でも、笑いの好みだって、人それぞれです。
吉本新喜劇のお約束の展開に安心して笑う人もいれば、何度も同じギャグが繰り返されることに、首をかしげる人もいるでしょう。どちらが優れているという話ではありません。ただ、同じものを見て、同じところで笑えるというのは、案外、地域の文化として大きな力を持っているのかもしれません。
「ああ、またあのネタか」そう思いながら、結局笑ってしまう。そこには、笑いそのものの面白さだけでなく、みんなが知っているお約束を共有する楽しさもあるのでしょう。
考えてみれば、通天閣も少し似ています。誰もが世界一の塔だと思っているわけではない。それでも、あの姿を見ると「大阪に帰ってきた」と感じる人がいる。それでもやがて抜かれてしまうのに、「あべのハルカス」を作ってしまう。
おなじみのものを、おなじみだからこそ愛する。それもまた、街の文化なのです。では、大阪人の「クセの強さ」は、どこから生まれるのでしょう。それは、生まれつきの性格というよりも、長い歴史の中で積み重なってきた、暮らし方や楽しみ方の違いなのかもしれません。
そして、今回の『美の壺』が教えてくれたのは、その違いを単なる「変わった文化」で終わらせないことでした。渡りにくい橋には、祈りがある。薄い昆布には、職人の技がある。小さな箱ずしには、食べる人を喜ばせる工夫がある。通天閣には、街の人々が重ねてきた思い出がある。そうした背景を知ると、最初は奇妙に見えたものにも、少しずつ愛着が湧いてきます。
もっとも、大阪の文化を知ったからといって、大阪の笑いが急に全部面白くなるわけではありません。やっぱり関東人には、ついていけないギャグだってあります(笑)。それでも、わからないからこそ面白い。自分とは違う感覚に出会えるからこそ、旅には発見があるのでしょう。
さて、ここまで大阪人の「クセの強さ」について、ずいぶん好き勝手に語ってきました。でも、よく考えてみると、橋の傾斜を気にし、昆布の削り方を調べ、箱ずしの寸法を確かめ、通天閣の高さにまで文句をつけている私たちも、相当なものです。
大阪の人に言わせれば、きっとこうでしょう。「あんたらも、たいがいクセ強いで!」……ごもっとも。これにて一件落着。え?オチはどこ?(笑)
湘南ひらつかITサポートセンターをもっと見る
購読すると最新の投稿がメールで送信されます。