奥出雲の美しい棚田は、“鉄”がつくったの?|山を削り、神さまと蕎麦を残した1300年の物語【新日本風土記】

鉄穴残丘 BLOG
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島根県の山あいに広がる、奥出雲。山の斜面には大小の田んぼが折り重なり、夏には青々とした稲が風に揺れ、秋になると黄金色の穂が山里を染めていきます。いわゆる、棚田です。いまでは奥出雲を代表する美しい風景のひとつですが、この棚田を眺めていると、ちょっと不思議なものに出会うことがあります。

田んぼの真ん中に、ぽつんと残された小さな丘。木々がこんもりと茂り、中には神さまが祀られている場所もあります。どうして、こんなところに丘があるのでしょう。どうして、田んぼの真ん中に神さまがいるのでしょう。NHK『新日本風土記』「奥出雲」は、古くからたたら製鉄が営まれてきたこの土地を、夏から秋へと旅します。

日本刀の材料となる玉鋼をつくる職人。88歳になった今も鉄を打つ鍛冶職人。米を育て、牛を飼う人々。故郷へ戻り、蕎麦を打つ若い職人。父と集めた竹を今も大切に使いながら、雲州そろばんをつくる職人。そして秋には、五穀豊穣を願い、男たちが神輿を激しく押し合います。

一見すると、それぞれ別々の奥出雲の物語です。ところが、その足元を少し掘ってみると――。「鉄」が出てきます。奥出雲では、山の花崗岩が風化してできた真砂土に含まれる砂鉄を採るため、かつて「鉄穴流し(かんなながし)」が盛んに行われました。

山を切り崩し、大量の水で土砂を流し、重さの違いを利用して砂鉄を選り分ける。まるで”砂金”を選り分けるようです。鉄を手に入れるために、人々は文字どおり山の形まで変えていたのです。では、砂鉄を採り終えたあと、その土地はどうなったのでしょう。

捨てられた――わけではありませんでした。人々は削られた土地を整え、痩せた土地にはソバなどを蒔き、牛を飼い、堆肥で土を育て、やがて田んぼへと変えていきました。つまり、いま私たちが「美しい」と眺めている奥出雲の棚田の一部は、鉄を採ったあとの風景でもあるのです。

そして、山を削るときにも、人々が手をつけなかった場所がありました。鎮守の杜や墓地など、人々が神聖な場所として大切にしてきたところです。周囲の山が削られていく中で、そこだけは残された。やがて周囲が田んぼへ変わると、それまで山の中にあった場所が、まるで田んぼの真ん中にぽつんと浮かぶ小さな島のようになりました。

だから――。神さまが田んぼの真ん中へやってきたのではありません。神さまは、ずっとそこにいたのです。変わったのは、その周りの風景でした。

733年に編さんされた『出雲国風土記』には、すでに仁多郡で産する鉄について記されています。それから、およそ1300年。山から取り出された鉄は、刃物や玉鋼になっただけではありません。山の形を変え、田んぼを生み、蕎麦を育て、牛と米を結び、人々の仕事や祈りにまでつながっていきました。

もしかすると奥出雲の風景は、自然だけがつくったものでも、人間だけがつくったものでもないのかもしれません。山を削る人がいた。土を育てる人がいた。鉄を打つ人がいた。そして――「ここだけは残そう」と、手を止めた人もいた。

美しい棚田を眺めながら、そんな時間を少しずつ巻き戻してみましょう。奥出雲の美しい棚田は、本当に“鉄”がつくったのでしょうか。その答えを探して、1300年にわたる鉄と人の物語へ――。『新日本風土記』と一緒に、奥出雲を歩いてみたいと思います。

【放送日:2026年10月4日(日)6:00 -6:59・NHK-BSP4K】
【放送日:2026年10月5日(月)17:00 -18:00・NHK-BS】
【放送日:2026年10月9日(金)8:00 -8:59・NHK-BS4K】

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第一章 奥出雲の美しい棚田は、本当に“鉄”を採った跡なの?

奥出雲の山あいを歩いていると、斜面に沿って大小の田んぼが幾重にも重なる、美しい棚田に出会います。夏には青々とした稲が風に揺れ、秋になれば一面が黄金色に染まる。いまでは奥出雲を代表する風景のひとつですが――。

この棚田を眺めながら、「ここは昔、砂鉄を採るために山を削った場所なんですよ」と言われたら、ちょっと驚いてしまいます。田んぼと鉄。どう考えても、すぐには結びつきません。ところが奥出雲と鉄の付き合いは、私たちが想像する以上に古いものでした。

733年に編さんされた『出雲国風土記』の仁多郡の条には、この地域で産出する鉄について、堅く、さまざまな道具をつくるのに適しているという記述が残されています。1300年近く前にはすでに、「仁多では、いい鉄が採れる」と知られていたわけです。

では、山深い奥出雲のどこから鉄を採ったのでしょう。鉱山の坑道を掘って、大きな鉄鉱石を運び出した――というわけではありません。奥出雲に広く分布しているのは、花崗岩が長い時間をかけて風化した真砂土(まさど)。その中に、たたら製鉄の原料となる砂鉄が含まれています。

ただし、その割合は奥出雲町の資料によれば、およそ1%。100kgの土の中に、砂鉄はざっくり1kg。……少ない。だったらどうするのか。山ごと崩すのです。そこで行われたのが、「鉄穴流し(かんなながし)」でした。

山を切り崩し、大量の土砂を水路へ流す。すると軽い土や砂は水とともに流れやすく、比重の大きな砂鉄は残りやすい。この重さの違いを利用して、少しずつ砂鉄の割合を高めていくのです。砂金を選り分けるような感じでしょうか?

奥出雲に残る羽内谷鉱山では、この鉄穴流しの設備が1972年まで使われていました。現存する鉄穴流しの最終工程の遺構としては、全国で唯一だとされています。ところが――。これほど大規模に山を削れば、当然、風景そのものが変わります。では砂鉄を採り終えたあと、削られた土地はどうなったのでしょう。

ここからが、奥出雲の面白いところです。人々はその土地を、捨てなかったのです。山を崩して砂鉄を採ったことで平らになった場所に土手や畦を築き、さらに水を使って土砂を運び込み、水平な耕地へ整えていく。しかも鉄穴流しのためにつくった水路やため池まで、そのまま農業用水として利用しました。

こうして、鉄を採った跡地が少しずつ耕地へ姿を変えていったのです。だから奥出雲の棚田は、「たまたま砂鉄を採ったら、田んぼに適した土地が残った」という話ではありません。むしろ逆でした。水はけのいい真砂土を母材とする土地を、人々がもう一度農地として使えるように整え、水を引き、土を育てていったのです。

つまり――。鉄穴流しが棚田を完成させたのではなく、鉄穴流しが残した土地を畑として整備し、そのあと人々が棚田へつくり直した。その違いは、とても大きいように思います。

しかも、それは一部の珍しい棚田だけの話でもありません。奥出雲町が現在の農地を調べたところ、砂鉄鉱山跡地にある耕地と、砂鉄採取後の土砂を流し込んでつくられたと推定される耕地を合わせると1,288ヘクタール。町全体の耕地のおよそ55%を占めていました。半分以上です。

いま私たちが奥出雲を訪れて、「きれいな棚田だなぁ」と眺めている風景の足元には、何百年にもわたる砂鉄採取の跡が眠っているのです。

そう考えると、この風景は少し違って見えてきます。自然がそのまま残った風景ではありません。かといって、山を削って終わった産業遺跡でもありません。

山を削る、鉄を採る、その土地をもう一度整える、水を引く、そして、作物を育てる。人々が土地の使い方を何度も変えながら、暮らしをつないできた風景なのです。日本遺産でも、この鉄穴流し跡地を利用した棚田そのものが、奥出雲のたたら文化を伝える重要な景観として位置づけられています。

でも、ここでもう一つ疑問が残ります。山を削ってできた土地なら、それだけでおいしい米が育つのでしょうか。もともとは花崗岩が風化した水はけのいい真砂土です。田んぼとして使うには、土そのものを育てる時間も必要だったはずです。

そこで奥出雲の人々が、鉄を採った跡地にまず蒔いたと伝えられているものがあります。それが――。蕎麦でした。そしてその先には、牛がいて、田んぼがあり、米があります。鉄の物語だったはずなのに、いつの間にか私たちは「命の循環」の入口まで来ていました。

ではなぜ、鉄を採った痩せた土地に蕎麦を蒔き、牛を飼うことが、やがて米作りへつながっていったのでしょう。次は、奥出雲の土の中をもう少し掘ってみましょう。

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第二章 なぜ“鉄の跡地”に、蕎麦と牛と米があるの?

砂鉄を採るために山を削り、その跡地を整えて田んぼへ変えていった奥出雲の人々。でも、ここで一つ疑問が残ります。山を平らにして水を引けば、それだけで田んぼになるのでしょうか?

そう簡単ではありませんでした。もともとは、花崗岩が風化してできた真砂土の土地です。鉄穴流しによって地形を整えることはできても、それだけで稲がよく育つ肥沃な土になるわけではありません。そこで、鉄を採り終えた痩せた土地に、まず蒔かれた作物のひとつが――蕎麦でした。

奥出雲町の農業遺産に関する資料にも、鉄穴流し跡地の痩せた土地では、まずソバを栽培し、土づくりが終わると新田へ変えていったという流れが示されています。ソバは生育期間が比較的短く、痩せた土地でも育てやすい作物です。

だから、いきなり稲を育てるのではなく、まず蕎麦を育てる。鉄を採り終えた土地を農地へ変えていく、その最初の一歩に蕎麦があったのです。もしかしたら今では全国的に有名になった「出雲そば」もそんなところから始まっているのかもしれません。

そう考えると、奥出雲で蕎麦が食べられてきたことも、単なる「山里だから蕎麦」という話ではなくなってきます。たたら製鉄のために森林を伐採した跡地や、砂鉄を採った跡地で在来のソバが栽培されてきた歴史が、現在の奥出雲の蕎麦文化につながっています。

でも――。蕎麦を育てただけで、痩せた土地が豊かな田んぼになるわけではありません。ここでもう一頭、奥出雲の暮らしに欠かせない存在が登場します。牛です🐂。

たたら製鉄が盛んだった時代、牛は鉄や物資を運ぶ大切な労働力でした。さらに農村では農耕にも使われ、奥出雲では長い時間をかけて牛の飼育と改良が続けられてきました。現在の奥出雲和牛へとつながる牛たちです。

でも牛が地域にもたらしたものは、力だけではありません。牛を飼えば、糞が出ます。それを堆肥に堆肥にして田畑へ戻す。農林水産省が紹介する奥出雲の循環型農業では、和牛の糞尿を堆肥にして田畑へ入れ、肥沃な土をつくる一方、田んぼや畑から出る稲わらや山の草は、牛の飼料や牛舎の敷料として利用する仕組みが示されています。

つまり、牛 → 糞尿 → 堆肥 → 田畑だけではありません。反対方向にも、田んぼ → 稲わら → 牛という流れがある。ぐるっと回っているのです。これはなんともサスティナブルです。これが番組概要にある、「米作りと牛飼いをつなぐ『命の循環』」なのでしょう。

ここまでを並べてみると、奥出雲の棚田がどう育ってきたのかが、少しずつ見えてきます。
砂鉄を採るために山を削る。
↓
痩せた跡地に蕎麦などを蒔く。
↓
牛を飼い、その糞尿を堆肥にする。
↓
堆肥を田畑へ入れ、土を育てる。
↓
土づくりが進んだ土地を新田へ変える。
↓
稲を育てる。
↓
稲わらなどを、また牛へ戻す。

そうやって何年も、何世代も、土を育ててきた。現在、奥出雲を代表する米として知られる仁多米も、そんな土地の上でつくられています。農林水産省は、奥出雲の仁多米について、豊かな水、堆肥を施した土、そして山間部の気候条件などによって育てられていると説明しています。

だから奥出雲の棚田は、鉄穴流しによって完成した田んぼではありません。鉄穴流しがつくったのは、いわば田んぼになるための「器」。そこへ水を引き、蕎麦を育て、牛を飼い、堆肥を入れ、人が何世代にもわたって土を育てた。その長い時間の先に、現在の棚田があります。

そう考えると――。今回の『新日本風土記』に若い蕎麦職人が登場することも、偶然には思えなくなってきます。いま彼が打っている蕎麦の向こうには、砂鉄を採り終えた土地にソバを蒔いた、名も知らない昔の人たちがいる。もちろん、番組に登場する蕎麦職人本人がそこまでを意識しているのかは、番組を見てみなければ分かりません。

それでも奥出雲という土地にとって、蕎麦は、鉄がなくなったところから始まった食べ物のひとつと言えるのかもしれません。

そして2025年、この長い営みは世界からも注目されました。たたら製鉄によって生まれた土地や水路を農業へ転用し、稲作、和牛、蕎麦、森林利用などを結びつけてきた奥出雲の農林畜産システムは、FAOの世界農業遺産に認定されています。

考えてみれば、不思議な話です。始まりは、鉄が欲しかった。ただ、それだけだったはずです。ところが鉄を採るために山を削った。その跡に蕎麦を蒔いた。牛が土を育てた。田んぼができた。米が実った。そして現在、その風景を私たちは日本の原風景などと「美しい棚田」のことを呼んでいます。

鉄を採るために変えた土地で、今度は命を育てる。奥出雲の人々は、土地を元の姿へ戻したわけではありません。変えてしまった土地に、次の役割を与え続けたのです。

でも――。山を削っていった昔の人たちにも、「ここだけは、手をつけない」と決めた場所がありました。現在の棚田の真ん中に、ぽつんと残っている小さな丘。そこには今も、神さまがいます。なぜ、田んぼの真ん中に神さまがいるのでしょう。次は、この不思議な風景の時間を、もう一度巻き戻してみましょう。

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第三章 どうして田んぼの真ん中に“たたらの神さま”がいるの?

奥出雲の棚田を眺めていると、ときどき不思議な風景に出会います。一面に広がる田んぼ。その真ん中に、そこだけ取り残されたような小さな丘があります。こんもりと木々が茂っていたり、小さな祠があったり。番組にも登場する、「たたらの神さま」です。

たたらの神様(出典:日本遺産)
たたらの神様(出典:日本遺産)

でも、どうして田んぼの真ん中に神さまがいるのでしょう。田んぼをつくったあとで、豊作を願ってここに神さまを祀ったのでしょうか。どうやら、そう単純な話ではありません。この不思議な風景を理解するには、もう一度、時間を巻き戻す必要があります。

いま目の前にある田んぼを消してみます。畦も消す。稲も消す。鉄穴流しによって削られた土地を、元の高さまで戻していく。すると――。そこに現れるのは、山です。

現在は田んぼの中にぽつんと浮かんでいる小さな丘も、かつては周囲の山とつながった風景の一部でした。奥出雲では砂鉄を採るため、鉄穴流しによって山を大規模に切り崩しました。ところが、何もかも削ったわけではありません。鎮守の杜や墓地など、人々が神聖な場所として大切にしてきたところには手をつけず、その周囲を削っていったのです。

こうして残った小高い場所は、「鉄穴残丘(かんなざんきゅう)」と呼ばれています。日本遺産「出雲國たたら風土記」でも、鉄穴流しによって山を削る際、鎮守の杜や墓地などを残したため、現在の棚田の中に小丘として残っていることが紹介されています。

だから、この景色を現在から見ると、田んぼの真ん中に神さまがいるように見えます。でも歴史を逆向きにたどってみると、見え方がまったく変わります。神さまが、田んぼの真ん中へやってきたのではありません。神さまは、ずっとそこにいたのです。変わったのは、その周りの風景でした。

山だった場所を、人が削った。砂鉄を採った。削った跡を整えた。蕎麦などを育てながら土をつくった。牛の堆肥を入れた。水を引いた。田んぼになった。そして何世代もの時間が流れたあと――。かつて山の中にあった神聖な場所だけが、田んぼの中の小さな島のように残ったのです。

そう考えると、あの小さな丘は単なる珍しい地形ではありません。人が削らなかった場所そのものが、昔の山の高さを記憶している。まるで、消えてしまった風景の一部分だけが、現在まで残されているようです。

そして、ここには奥出雲のたたらを考えるうえで、とても大切なものが隠れているように思います。鉄穴流しは、山の姿そのものを変えてしまうほど大規模な営みでした。大量の土砂を動かし、川へ流し、砂鉄を取り出す。

ですから、「昔の人は自然に手をつけず、自然と共生していました」という単純な物語ではありません。人は、山をも大きく変えています。でも――。全部は変えなかった。「ここには神さまがいる」「ここは大切な場所だ」そう考えた場所まで削ることはしなかった。

どこまで変えるのか。何を残すのか。その境界を、人々は自分たちなりに引いていたのでしょう。そして、その判断が何百年もたった現在の風景にまで残っています。

第一章で見た棚田は、人が土地を変えた記憶でした。第二章で見た蕎麦や牛、米は、変えた土地をもう一度育てた記憶でした。そして田んぼの中に残る小さな丘は――。人が変えなかった記憶なのかもしれません。

だから奥出雲の棚田を眺めると、同じ風景の中に二つの時間があります。人が手を入れ、何度も姿を変えてきた田んぼ。その真ん中で、ずっと同じ場所に残り続けた神さま。変えたものと、変えなかったもの。その両方が並んでいるからこそ、奥出雲の風景は1300年にわたる人と鉄の時間を語ることができるのでしょう。

でも、たたらが奥出雲に残したものは、風景だけではありません。山から取り出した砂鉄は鉄になり、人の手へ渡りました。いまも火を焚いて玉鋼(たまはがね)をつくる人がいます。88歳になったいまも、鉄を打ち続ける鍛冶職人がいます。そして、父と集めた竹を大切に使いながら、そろばんをつくり続ける職人もいます。

土地に残った時間があるなら、人の手に残った時間もある。1300年前から続く“鉄の里”で、その時間は現在、どんな姿になっているのでしょう。次は棚田から少し視線を上げて、奥出雲で働く人たちの「手」を見てみましょう。

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第四章 1300年前の“鉄”は、いま何に姿を変えているの?

733年に編さんされた『出雲国風土記』には、仁多郡で産する鉄について、「堅く、さまざまな道具をつくるのに適している」という記述が残されています。

それから、およそ1300年。もし当時の人が現在の奥出雲を歩いたら、どんな風景に驚くでしょう。鉄穴流しで削った山が棚田になっていること。そこで稲が育ち、牛が飼われていること。かつて痩せた土地に蒔かれた蕎麦が、いまも奥出雲の味として受け継がれていること。

そして――。いまも、たたらの火が燃えていること。奥出雲町には現在、日本刀の材料となる玉鋼(たまはがね)をつくる「日刀保たたら」があります。

近代的な製鉄所ではありません。砂鉄と木炭を原料に、粘土で築いた炉で鉄をつくる、古くから伝わるたたら製鉄です。もっとも、この火が1300年間、一度も途絶えず燃え続けてきたわけではありません。近代になると伝統的なたたら製鉄は衰退し、戦後には操業が途絶えました。

ところが、日本刀をつくるためには、その材料となる玉鋼が必要です。そこで日本美術刀剣保存協会は1976年、奥出雲に「日刀保たたら」を開設し、翌1977年に正式に復活させました。現在も技術の保存と後継者育成を続け、生産した玉鋼などを全国の刀匠へ頒布しています。

つまりこれは、昔の製鉄を見せるために再現している火ではありません。いまでも日本刀をつくる人がいる。だから、その材料をつくる人も必要になる。現在の仕事として燃えている火なのです。

たたらの操業は、砂鉄と木炭を交互に炉へ入れながら3昼夜続きます。最後に炉を壊すと、中から現れるのが約2.5トンもの鉄の塊――「鉧(けら)」です。しかし、そのすべてが玉鋼になるわけではありません。炭素量などによって性質の異なる鉄に分けられ、その中から日本刀の材料となる良質な玉鋼が選ばれていきます。

考えてみれば、不思議です。1300年前の『出雲国風土記』に、「この土地の鉄は、道具をつくるのにいい」と記された場所で――。いまも人が砂鉄と木炭から鉄をつくっている。もちろん、製法も社会も、その意味も、長い歴史の中で変化してきました。

それでも、砂鉄を見る目。火を見る目。鉄を見る目。そうしたものが、人から人へ受け渡されています。番組に登場する88歳の鍛冶職人も、その長い時間の先にいる一人です。

熱した鉄を置く。槌を振り下ろす。また熱する。また打つ。何度も何度も繰り返しながら、一枚の鉄を刃物へ変えていく。

番組概要には、「88歳の手が打ち出す刃物の世界」とあります。ここで大切なのは、奥出雲が単なる「日本刀の里」ではないということでしょう。『出雲国風土記』にも書かれていたのは、名刀の話ではありません。「さまざまな道具をつくるのに適した鉄」でした。

鉄は武器だけではなく、暮らしの中で使う道具にもなった。畑を耕す。木を切る。食べ物を切る。ものをつくる。鉄は、人の手の延長として奥出雲の暮らしを支えてきました。だから88歳の鍛冶職人が打つ刃物も、1300年前から続く「鉄の里」の、もう一つの現在形なのかもしれません。

でも、たたらが奥出雲にもたらしたものを探していくと、鉄ではないものまで見えてきます。その一つが、雲州そろばん。奥出雲町の亀嵩周辺で始まったとされる雲州そろばんは、江戸時代後期から受け継がれてきた伝統工芸です。

珠を削る。軸となる竹を整える。枠をつくる。一つひとつの部品を組み上げ、指先で滑らかに動く道具へ仕上げていく。番組に登場する職人は、父と一緒に集めた竹材を、いまも使い続けているといいます。ここにもまた、時間を受け継ぐ手があります。

雲州そろばんが発展した背景には、たたら製鉄によって人や物、商いが集まった地域社会との関わりが語られています。けれど、「たたらがあったから、雲州そろばんが生まれた」と、それだけで説明してしまうのは簡単すぎるでしょう。

そろばんには、そろばんなりの歴史があります。大工だった村上吉五郎が、江戸時代後期に他地域のそろばんを参考にしながら、地元で手に入る材料と技術を生かして製作を始めたと伝えられています。

鉄とは違う材料。鉄とは違う技。それでも、山深い奥出雲に多くの人が暮らし、ものをつくり、ものを運び、商いを続ける社会があったからこそ、こうした手仕事も育っていったのでしょう。

そう考えると、「たたらの遺産」という言葉の意味が少し変わってきます。遺産というと、古い炉。昔の道具。石垣。建物。そんな「残されたもの」を想像します。でも奥出雲に残っているものは、それだけではありません。

鉄をつくる手。鉄を打つ手。竹を削る手。そして、その手の動きを次の人へ伝えること。たたらの遺産は、博物館のガラスケースの中だけにあるのではなく、いま働いている人の手の中にもある。そんなふうにも見えてきます。

しかも、その「受け継ぐ」という営みは、昔とまったく同じことを繰り返すことではありません。たたら製鉄はいったん途絶え、必要とする人々によって復活しました。鉄穴流しの跡地は、そのまま保存されたのではなく棚田へ変わりました。痩せた土地には蕎麦を蒔き、牛とともに土を育てました。

奥出雲の人々は、昔の姿をそのまま残してきたのではない。必要なものを残しながら、時代に合わせて姿を変えてきたのです。山は、棚田へ。砂鉄は、玉鋼へ。鉄は、刃物へ。竹は、そろばんへ。そして技は、次の人の手へ。

1300年前の“鉄”は、一つの形で残ったのではありません。土地になり、仕事になり、道具になり、人の手の記憶になって、現在の奥出雲に散らばっているのでしょう。でも、その長い物語の最後に、人々が願うものは「鉄」ではありません。

秋。黄金色に実った田んぼのそばで、男たちが集まります。120kgを超える神輿をめぐり、体と体をぶつけ合う。願うのは――。五穀豊穣。鉄を求めて山を削るところから始まった物語が、最後には大地の実りを願う祭りへたどり着きます。

山を削った人々は、いったい何を奥出雲に残したのでしょう。次は、この1300年の旅の終わりに、もう一度あの棚田へ戻ってみましょう。

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最終章 山を削った人々は、何を奥出雲に残したの?

秋、奥出雲の田んぼが黄金色に染まるころ、人々が集まる祭りがあります。下阿井の阿位八幡宮で、毎年10月1日に行われる例大祭。そこで受け継がれているのが、「押輿神事(おしこししんじ)」です。

120kgを超える神輿を男たちが担ぎ、石段から投げ落とす。そして上地区と下地区に分かれた男たちが神輿を押し合い、激しく力を競う。450年以上続くとされるこの祭りで、人々が願ってきたものがあります。

五穀豊穣。

そして無病息災。一年を無事に暮らし、大地から豊かな実りをいただくことです。考えてみれば、それはとても自然な願いなのかもしれません。奥出雲では、長い間、鉄が富を生みました。山から砂鉄を採る。木炭をつくる。たたらで鉄をつくる。鉄を運ぶ。鉄を売る。

その周りには多くの人が集まり、さまざまな仕事や手仕事も育っていきました。けれど――。どれだけ鉄が採れても、人は鉄を食べることはできません。どれだけ富があっても、米が実らなければ、人は生きていけない。だから人々は山を見上げるだけでなく、足元の土を耕した。

牛を飼った。堆肥をつくった。蕎麦を蒔いた。水を引いた。そして稲を植えた。そう考えると、奥出雲の歴史には二つの「豊かさ」があったのかもしれません。一つは、山から取り出す豊かさ。もう一つは、大地から育てる豊かさ。

鉄は、山の中に眠っているものを取り出す営みでした。農業は、土へ働きかけ、種を蒔き、育つのを待つ営みです。どちらも奥出雲の人々を支えてきました。けれど、人が毎年生きていくために欠かすことのできないものは、やはり大地の実りでした。

だから秋になると、人々は神さまの前に集まり、「今年もたくさん実りますように」と願う。それは、1300年にわたる鉄の物語とは別のものではありません。むしろ、その先にたどり着いた、とても人間らしい願いなのでしょう。

ここで、今回歩いてきた奥出雲の風景をもう一度振り返ってみます。最初に見たのは、美しい棚田でした。その下には、鉄穴流しによって削られた山の記憶がありました。

砂鉄を採った跡地は捨てられず、整えられ、痩せた土地には蕎麦などが蒔かれた。牛を飼い、その糞尿を堆肥として土へ戻す。少しずつ地力を高め、やがて水を張り、稲を育てる。そして田んぼの真ん中には、周囲が削られても残された神聖な小さな丘がありました。

神さまが田んぼへやってきたのではありません。神さまは、ずっとそこにいた。変わったのは、その周りの風景でした。

そして鉄そのものも、消えてしまったわけではありません。いまも奥出雲では、たたらの火が焚かれています。玉鋼をつくる人がいる。鉄を打つ鍛冶職人がいる。蕎麦を打つ若者がいる。父と集めた竹を使いながら、そろばんをつくる職人がいる。同じ形のまま残ったものもあれば、まったく違う姿へ変わったものもあります。

だから奥出雲は、「昔の姿がそのまま残っている土地」ではないのでしょう。むしろ、変えながら、残してきた土地。そんな言葉のほうが似合うように思います。

山を削った。でも、神聖な場所は残した。鉄を採った。でも、跡地を捨てなかった。痩せた土地に作物を育てた。牛とともに土をつくった。

田んぼに変えた。そして、その土地で生きるための技や祈りを、次の世代へ渡していった。そうやって何百年も人が土地に手を入れ続けた結果が、いま私たちの目の前にある、奥出雲の美しい棚田なのです。

では、最初の問いへ戻りましょう。奥出雲の美しい棚田は、“鉄”がつくったのでしょうか。たしかに、鉄がなければ、この地形は生まれなかったでしょう。でも、鉄だけでは棚田にはなりません。

山を削ったあとに、土地を整えた人がいた。水を引いた人がいた。蕎麦を蒔いた人がいた。牛を育てた人がいた。土を肥やした人がいた。稲を植えた人がいた。そして、「ここだけは残そう」と、手を止めた人もいた。

だから、この棚田をつくったものを一つだけ挙げることはできないのかもしれません。鉄があり、水があり、牛がいて、作物があり、神さまがいて、そして――そこで生き続けようとした人がいた。

1300年という時間をかけて、そのすべてが現在の風景になった。そして秋。黄金色に実った稲穂のそばで、人々は今年も五穀豊穣を願います。鉄がたくさん採れますように、ではなく。今年も、実りますように…。

その祈りを聞いていると、奥出雲に残された本当の「遺産」が、少しだけ見えてくるような気がします。それは鉄でも、棚田でも、古い技術でもなく――。この土地で、次の一年も生きていこうとする営みそのもの。

山を削り、風景を変えながら、それでも同じ土地で暮らし続けてきた人々。奥出雲の棚田が美しいのは、もしかすると、その長い時間まで一緒に見えてくるからなのかもしれません。そして黄金色の稲穂の向こうに、小さな神さまの森が見えています。神さまは今日も、ずっと同じ場所にいます。


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