夜、焚火の炎が立ち上がると、不思議と人はそこに集まってくる。特別な話題があるわけでもなく、誰かが語り続けるわけでもない。ただ、揺れる火を見つめているだけで、心が静まっていく。
炎は、化学反応として説明できる存在だ。それでも私たちは、焚火やろうそくの前で、言葉にならない何かを感じ続けてきた。祈りの場に火があり、祭りに火があり、暮らしの明かりとして、芸術の主題として、炎はいつも人のすぐそばにあった。
今回の『美の壺』が見つめたのは、燃える火そのものではなく、人が炎とどう向き合ってきたかという時間だった。
【放送日:2026年1月21日(水)19:30 -20:00・NHK BSP4K】
導入|人はなぜ炎を見つめてしまうのか?
炎を前にすると、人は自然と立ち止まる。
スマートフォンを手にしていても、会話の途中であっても、気づけば視線は、揺れる火へと引き寄せられている。炎は、決して同じ形を保たない。一瞬として同じ姿を見せず、生まれては消え、伸びては崩れ、また立ち上がる。その不安定さが、なぜか私たちを落ち着かせる。
焚火を囲むと、言葉が少なくなる。祈りの場では、火を前にして手を合わせる。誰かに命じられなくても、人は炎の前で静かになる。
19世紀、ファラデーはその著書「ロウソクの科学」で炎を徹底的に観察し、分解し、科学として説明した。それでもなお、炎が人の心に与える“何か”は、数式や理論の外に残り続けている。
揺らぐ炎は、人の心の状態によく似ている。完全に制御できず、常に変わり続け、それでも、確かにそこに在り続けるもの。だから私たちは、炎を見つめてしまうのかもしれない。そこに、祈りや願い、畏れや安らぎを重ねながら。
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祈りとしての炎(仁和寺・護摩供)
京都・仁和寺の金堂に描かれた「五大明王」。その背後には、激しく燃え上がる火炎が表現されている。一見すると、怒りや破壊の象徴のようにも見えるが、その炎は、誰かを罰するためのものではない。
明王の火炎は、迷いや執着、煩悩を焼き尽くし、人を正しい道へ導くための“力”として描かれている。ここでの炎は、恐れる対象ではなく、救いへと向かうための媒介だ。
護摩供(ごまく)は、その思想を体現する儀式だ。人々は願い事を書いた木を炎にくべ、それを天へと託す。願いは、握りしめ続けるものではなく、燃やすことで、手放される。炎は、受け取った願いを留めない。燃え、形を変え、煙となり、空へと昇っていく。その過程そのものが、祈りなのだ。
比叡山では、灯し続ける火が油を絶やすことで消えてしまうことを「油断」と呼び、強く戒めてきたという。それは単なる不注意ではない。火と向き合う心を失うこと、祈りを形だけのものにしてしまうことへの警告だった。
揺らぐ炎は、常に消える可能性を孕んでいる。だからこそ、人はそこから目を離さない。油断せず、見つめ続ける。祈りとは、何かを強く願う行為であると同時に、注意深く在り続ける姿勢なのかもしれない。
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ゆらぎとしての炎(たいまつ祭り・和ろうそく)
長野・浅間温泉で行われる「たいまつ祭り」。人の背丈をはるかに超える、2.5メートルもの巨大なたいまつが夜の町を照らす。その炎は、整然としていない。激しく揺れ、音を立て、風にあおられながら、それでも確かに燃え続ける。
たいまつは、制御しきれる火ではない。一人では持てず、複数の人が力を合わせて担ぐ。そこには、個人の祈りを超えた、共同体としての願いが宿っている。
火は、誰か一人のものではない。揺れながら、周囲を巻き込み、人と人を自然に同じ方向へ向かせる。その感覚は、日本の伝統的な明かり「和ろうそく」にも通じている。
和ろうそくの炎は、洋ろうそくよりも大きく、風がなくても、常にゆらゆらと揺れている。それは欠点ではない。芯に使われる和紙や灯芯草、植物性の蝋が、炎に余白を与えているからだ。揺らぐからこそ、炎は生きているように見える。揺らぐからこそ、人の心はそこに重なる。
完全に安定した光は、ただの照明になる。だが、わずかに不安定な炎は、人の感情や祈りを映し出す鏡になる。
たいまつも、和ろうそくも、炎を「整えすぎない」ことで、人と火との距離を保ってきた。それは、自然を支配しようとしない、日本人の感覚そのものなのかもしれない。
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芸術としての炎(速水御舟『炎舞』)
日本画の巨匠・速水御舟の作品「炎舞」。
画面に描かれているのは、燃え上がる炎そのものではない。そこにあるのは、闇の中に立ち上がる、わずかな光と気配。炎は主張しない。むしろ、周囲の静けさによって、かろうじて“そこに在る”ことを示している。
御舟が描いたのは、炎の激しさではなく、炎が立ち上がる一瞬の緊張だったのかもしれない。

日本画には、すべてを描かないという選択がある。
色を抑え、線を減らし、見る者の感覚に委ねる。「炎舞」でも、炎を際立たせるために、多くのものが消されている。背景の説明、物語、感情の押し付け――それらを削ぎ落とすことで、炎だけが、静かに浮かび上がる。
ここでの炎は、祈りの道具でも、祭りの象徴でもない。ただ、存在している。それでも私たちは、その炎から目を離せない。音も熱も伝わらないはずなのに、なぜか、そこに温度を感じてしまう。それは、炎が描かれているからではなく、炎と向き合う「間」が、画面の中に残されているからだ。
速水御舟の描いた炎は、燃えているのに、騒がない。揺れているのに、訴えない。ただ、そこに在り続ける。それはきっと、人が炎に向けてきたまなざしの、もっとも静かな形なのだと思う。
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暮らしに戻る炎(たき火の極意)
番組の最後で語られた「たき火の極意」は、意外なほど地味なものだった。勢いよく燃やさないこと。風を読み、薪を選び、火を育てること。火は、強く求めるほど、暴れる。だが、注意深く向き合えば、必要な分だけの温もりを与えてくれる。
たき火の前では、人は自然と声を落とす。炎を見つめ、音を聞き、自分の呼吸を思い出す。それは、祈りとも、芸術とも違う、日常の中の炎だ。
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結び|油断、揺らぎ、無常
火は、放っておけば消える。近づきすぎれば、危うい。だから人は、炎から目を離さない。比叡山で「油断」と戒められてきたのは、単なる不注意ではなく、向き合う心を失うことだった。
揺らぐ炎は、消えやすい存在でありながら、見つめ続けることで、確かに在り続ける。寄せては返す波のように、立ち上がっては形を変える炎の姿は、この世界そのものを映している。
諸行無常。すべては移ろい、同じ形を保たない。それでも、私たちは今日も火を灯す。油断せず、揺らぎを受け入れ、無常の中に身を置きながら。炎は、消えてしまうからこそ、見つめるに値するのだ。