正月の雑煮や、鏡餅、白無垢、赤飯。日本のお祝いは、どれも声高に主張しない。華やかさよりも、手間や時間が先に立つ。
なぜ、ここまで丁寧に続けてきたのだろう。効率を優先すれば、もっと簡単な形はいくらでもあったはずだ。それでも日本のお祝いは、形を変えながら、今日まで受け継がれてきた。
祝うとは、特別なことをする行為ではなく、誰かの無事や節目を、静かに思い続けることなのかもしれない。
年末の少しゆっくりした時間に、美の壺・年末スペシャル「日本のお祝い」は、その“続いてきた理由”を、声を潜めるように、そっと見せてくれる。
(放送日:2025年12月30日(火)19:30 -20:59・NHK BSP4K)
正月の一杯に込められた、家庭の記憶(雑煮)
正月の雑煮ほど、同じ名前なのに中身が違う料理はないかもしれない。白味噌か、すましか。丸餅か、角餅か。焼くのか、煮るのか。具材も、切り方も、順番も、家ごとに少しずつ違う。その違いは、正解や不正解で分けられるものではない。
むしろ雑煮は、「その家が、どんなふうに一年を重ねてきたか」を静かに映す器のような存在だ。番組では、料理研究家・大原千鶴さんが白味噌仕立ての雑煮を紹介する。けれど画面から伝わってくるのは、レシピの巧みさよりも、続けてきたことへの眼差しだった。
雑煮は、特別な日のためのごちそうでありながら、どこか日常の延長にある。手間はかかるが、手間をかけていることを誇らない。そこにあるのは、「今年も無事に迎えられた」という控えめな喜びだけだ。
子どもの頃、理由もわからず食べていた一杯。大人になってから、ふとその味を思い出すことがある。それは味そのものというより、台所の気配や、家族の声、正月の朝の空気ごと、記憶に染みついているからなのだろう。
雑煮は、変わらないために残ってきたのではない。変わりながら、それぞれの家に合わせて続いてきた。その柔らかさこそが、日本のお祝いが長く息づいてきた理由のひとつなのかもしれない。
<広告の下に続きます>
形に託された祈り(鏡餅・産着・節目の道具)
子どもの頃には、少し地味に見えたものがある。飾り気の少ない鏡餅や、白い産着、行事ごとに決まって登場する道具たち。けれど大人になって振り返ると、その“華のなさ”こそが、不思議と心に残っていることに気づく。
鏡餅は、派手に飾るためのものではない。丸い形には欠けることのない願いが込められ、重ねることには時間の積み重ねが託されている。目立たない場所に置かれていても、家の中で静かに一年の始まりを見守ってきた。
産着や七五三の装い、ひな人形や鯉のぼりも同じだ。どれも、「こうしなければならないから」用意されてきたわけではない。ただ、
無事に育ってほしい
これから先も守られてほしい
という気持ちを、形にせずにはいられなかった結果なのだろう。
番組が映し出す匠の技は、華やかさを競うものではない。手間を重ね、意味を重ね、使われる時間を想像しながら作られている。その道具は、一度きりのためにではなく、何度も節目を迎える人生に寄り添う。
日本のお祝いが大切にしてきたのは、感情を大きく表現することではなく、形として残し、静かに託すことだったのかもしれない。理由を言葉にしなくても、道具がそこにあるだけで伝わるものがある。それは、派手さとは別の場所にある、確かなあたたかさだ。
<広告の下に続きます>
人生の節目を包む、美しさの理由(白無垢・酒器)
祝いの席には、必ずしも主役になる必要のない美しさがある。神前結婚式で身にまとう白無垢は、豪華さを競うための装いではない。白一色に込められているのは、始まりに向かう人を、余計な色で染めないという考え方だ。どこまでも控えめで、どこまでも受け身。それでいて、人生の節目を迎える人の存在を、いちばん静かに際立たせる。
番組では、金彩工芸士が手がける白無垢の仕事も紹介される。近くで見なければ気づかないほどの細やかさ。光を放つためではなく、光を受け止めるための技だ。
同じことは、神前結婚式で使われる“長い取手の酒器”にも言える。なぜ、あんなにも長いのか。それは使いやすさのためではない。注ぐ人と受ける人の距離を保ち、場の流れを乱さないための形だ。
祝いの道具は、自分を主張しない。場を整え、人と人のあいだをなめらかにつなぐためにある。人生の節目に寄り添う美しさは、拍手を浴びる必要がない。ただ、その場が無事に終わることを願い、静かに役目を果たす。日本のお祝いが大切にしてきたのは、目を引く美ではなく、場を包み、時間を支える美しさだったのだろう。
<広告の下に続きます>
時間をかけること自体が、祝いになる(赤飯)
赤飯は、手間のかかる料理だ。前の晩からもち米を水に浸し、小豆を煮て、蒸し上げるまでには、どうしても時間が必要になる。急いで作ることはできない。けれど不思議と、その時間は「待たされている」と感じない。むしろ、祝いの日に向かって気持ちが整っていく準備の時間として、自然に受け入れられてきた。
番組で紹介される、二日かけて炊き上げる赤飯も、特別な味を狙ったものではない。時間を惜しまないことで、その日を大切に迎えようとする姿勢が、そのまま味になっている。
赤飯があるだけで、場の空気が少し変わる。「今日はいつもと違う日なんだ」と、言葉にしなくても伝わる。それは、時間をかけたことそのものが、すでに祝いになっているからだろう。
日本のお祝いは、効率よく仕上げることよりも、手を動かし、待ち、整える時間を大切にしてきた。その積み重ねが、祝いの意味を、食卓や暮らしの中に静かに染み込ませてきたのだ。
<広告の下に続きます>
まとめ:祝うということ、残してきたということ
日本のお祝いは、いつも控えめだ。声を張り上げることも、派手に喜びを示すこともない。それでも、雑煮を用意し、鏡餅を飾り、節目の装いを整え、赤飯に時間をかけてきた。その一つひとつに、理由があり、続けてきた時間がある。
祝うとは、何かを成し遂げたことを誇る行為ではなく、無事にここまで来られたことを確かめる時間だったのかもしれない。誰かの人生の節目に、「よかったね」と言葉にせずとも、形や手間や待つ時間で寄り添う。
美の壺・年末スペシャル「日本のお祝い」は、その静かな営みを、説明しすぎることなく映し出す。理由を教えるというより、思い出すきっかけを差し出してくる。
読んだ人が、あるいは見終えたあとで、ふと自分の家の雑煮や、赤飯の湯気や、飾られていた道具のことを思い出す。それで十分なのだろう。
日本のお祝いは、特別な日のためだけにあるのではない。時間を重ねてきた暮らしの中に、静かに置かれてきた「大丈夫だったよ」という合図のようなものなのだから。